宗方姉妹 / 田中絹代
宗方姉妹
/小津安二郎
平均評価点:
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全体の平均評価点: (5点満点)
(24)
解説・ストーリー
世界中の監督に影響を与えた小津安二郎監督が、松竹を離れ、はじめて新東宝で製作した作品。主演は田中絹代、高峰秀子。伝統を大切にし、皮肉屋の夫に耐えつづける姉と、そんな姉に反発する奔放な妹の対比で、日本の家庭崩壊を描いた人間ドラマ。
世界中の監督に影響を与えた小津安二郎監督が、松竹を離れ、はじめて新東宝で製作した作品。主演は田中絹代、高峰秀子。伝統を大切にし、皮肉屋の夫に耐えつづける姉と、そんな姉に反発する奔放な妹の対比で、日本の家庭崩壊を描いた人間ドラマ。
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「宗方姉妹」 の解説・あらすじ・ストーリー
解説・ストーリー
世界中の監督に影響を与えた小津安二郎監督が、松竹を離れ、はじめて新東宝で製作した作品。主演は田中絹代、高峰秀子。伝統を大切にし、皮肉屋の夫に耐えつづける姉と、そんな姉に反発する奔放な妹の対比で、日本の家庭崩壊を描いた人間ドラマ。
「宗方姉妹」 の作品情報
「宗方姉妹」 のキャスト・出演者/監督・スタッフ
宗方姉妹の詳細
収録時間: |
字幕: |
音声: |
112分 |
|
|
レイティング: |
記番: |
レンタル開始日: |
|
TDV3205RP |
2008年04月22日
|
在庫枚数 |
1位登録者: |
2位登録者: |
7枚
|
1人
|
0人
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宗方姉妹の詳細
収録時間: |
字幕: |
音声: |
112分 |
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レイティング: |
記番: |
レンタル開始日: |
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TDV3205RP |
2008年04月22日
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在庫枚数 |
1位登録者: |
2位登録者: |
7枚
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ユーザーレビュー:24件
保守的な田中絹代、現代的な高峰秀子、役柄だけどね
投稿日:2024/03/22
レビュアー:趣味は洋画
宗方姉妹 (1950年・新東宝、モノクロ、112分) 監督:小津安二郎
対照的な生き方を貫く姉妹の姿を通じ、戦後日本の家庭の崩壊を描いた作品です。
新しさ、古さとは何かという主題を提示しながらも、人間関係が複雑に絡む様子が見事に描かれています。
古風な生き方を貫こうとする姉の節子(田中絹代)と、束縛を嫌う妹の満里子(高峰秀子)の姉妹は、余命短い父(笠智衆)の状態を聞いて、一緒に暮らすようになる。節子の夫・亮助(山村聰)は失業中で、自信を無くして暗く心を閉ざしている。満里子は、冷たい夫に黙って耐える姉が気に入らない。そして節子が今でも昔の恋人、田代(上原謙)に想いを寄せていることを知り、2人の間を奔走する。一方、亮助は酒浸りの日々が続き、節子に対する態度は日増しに酷くなっていく。ある日、田代のもとへ真下頼子(高杉早苗)という女性が訪ねてくるが、居合わせた満里子は、真下の妙に気取った態度が気に入らない。やがて生活の先行きに不安を感じる節子は、銀座で経営するバーを手放そうと思案するが...。
あらためて登場人物と演者を御紹介します。
三村節子(田中絹代) :何事にも保守的で、日本の伝統的な価値観を重んじている。銀座でバーを経営しながら冷徹な夫に耐える日々を送っている。
宗方満里子(高峰秀子):節子の妹。自由奔放に生きる現代的な娘。行動派で気が強いが、ユーモアも持ち合わせている。
三村亮助(山村聰) :失業中で酒浸りの毎日。生きる希望を失って、自暴自棄になっている。妻や義妹に冷たい態度を取り続ける。
田代宏(上原謙) :節子の昔の恋人。神戸で家具屋を経営している。温和な性格で、すべてに紳士的。
宗方忠親(笠智衆) :節子、満里子姉妹の父親で、京都の寺で間借り住まいをしている。余命短いことを悟っている。
真下頼子(高杉早苗) :田代の友人で、大阪・北浜在住。自身は未亡人で、今は田代に気がある様子。
前島五郎七(堀雄二) :節子が経営するバー「アカシア」のバーテンダー。かつては特攻隊にいた。
他にも、飲み屋「三銀」の主人役で藤原釜足、「三銀」の女中キヨちゃん役で千石規子が出演しています。
高峰秀子演ずる満里子が、ペロッと舌を出すシーンがあります。
1回のときもあれば、1シーンで2回、3回のときもあるのですが、その仕草がとても可愛いのです。
大袈裟かもしれませんが、そのシーンを見るだけでも価値があると思います。
又、姉の日記を見て知った内容を、歌舞伎調の喋り方で田代に話すシーンは笑えます。
彼女は北海道・函館生まれで、本作出演時は26歳。
日本を代表する女優の一人として、1930年代から70年代にかけて、実に160本ほどの作品に出演しています。
個人的には成瀬巳喜男監督の「浮雲」(55年)、「流れる」(56年)、「女が階段を上る時」(60年)、「放浪記」(62年)、そして野村芳太郎監督の「張込み」(58年)、たった5本の鑑賞で、本作が6本目であることに気づきました。急遽、他の名作3本をリストインしたところです。
山村聰、堀雄二(かつてのTVドラマ「七人の刑事」の赤木係長役で有名)の両名が若く、観始めてしばらくは本人と分かりませんでした。
逆に千石規子は独特の風貌と声質で、すぐ彼女と分かりました。
更に、出演時46歳の笠智衆が、老けメイクで得意の老人役を好演しています。
前半から中盤は高峰秀子の利発さ、若々しさがストーリー全体を牽引していきます。
しかし後半からラストシーンにかけては、 ‘さすが田中絹代’ と感じさせる貫禄の演技に圧倒されます。
小津作品では「東京物語」(53年)や「お茶漬の味」(52年)も良かったのですが、本作における「姉妹の描かれ方」は素晴らしいです。
監督の期待にしっかりと応えた、田中絹代、高峰秀子、2人の大女優にあらためて敬意を表します。
このレビューは気に入りましたか?
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妻の気高さ、夫の闇。
最近、偶然手に取った某全国紙の記事で、
昨年の東京国際映画祭で小津安二郎監督の
生誕120年を記念したシンポジウムが
開かれたことを知りました。
その記事がとりわけ僕の関心を惹いたのは、
シンポに出席した黒沢清監督が小津監督の「宗方姉妹」について
「ここまで凄まじく断絶した夫婦関係を、
男性が無抵抗の女性に対してここまで酷い暴力を振るう瞬間を、
映画の中でほとんど見たことが無い」と語っておられたことでした
(コメント内容は同映画祭の公式サイトも参照)。
「断絶」はまだしも、あの小津映画の中で「暴力」とは……
がぜん興味を掻き立てられ、観てみることにしました。
その暴力シーン、確かに衝撃的です。
しかし、男が女を、夫が妻を「ぶつ」というのは、
コンプラ全盛の現在にあっては即アウトとはいえ、
ある時代までの日本社会では、よくあることだったんでしょうね
(「理に服する」ことを本能的に拒む女性の理不尽を
「力でたしなめる」ことのできた昔の男は、
偉かったとも言えるのです)。
とはいえ、本作ではその回数や前後の状況が酷い訳ですが。
耐え忍ぶ妻にとどめを刺すように暴力を振るう
失職中の夫(山村總)は、黒沢監督が仰るように
「極度のニヒリズムに陥っている」のだけど、
それにしても自堕落と甘えが目に余ります。
映画の中では夫の過去について詳述されませんが、
あの「デカダン気取り」は、果たして
妻と田代(上原謙)の過去の関係を知ったことだけが原因なのか。
そして、最後の「身の振り方」……
戦後間も無い頃でもあり、この夫が負う深い闇が気になります。
戦時中、よほど酷い精神的な外傷を負ったのか
(それにしては、外地での思い出を語る場面では珍しく朗らかだが)。
あるいは、引き揚げや占領など戦後の混乱期に根を持つのか。
いずれにせよ、夫は戦中戦後の経験から
あらゆる「人間的なもの」を信じられなくなっているのでしょう
(それは「人情味が無いから」という理由で猫を溺愛したり、
飲み屋の無学で気楽な女将や客には心を開くことからも窺える)。
そんな夫にとって、戦争を経験してもなお
「人間」や「道徳」を信じているような
妻の生きざまは苛立たしく、無私に尽くされるほど
自分が見下され、責められているように感じたのかもしれません。
一方、そんな夫を夜の仕事をしてまで支える妻役の
田中絹代の単独ショットが、本当に神々しい。
所作にも表情にも、気高く芯の強い品格が溢れています。
それは単なる「耐える妻」「貞淑な妻」という世間の道徳や旧習、
当時の女性に求められたロール・モデルへの服従ではなく
「時流に流されず、いつまで経っても古くならないことが
本当の新しさだ」という彼女なりの「哲学」に
支えられているからだと思います。
たとえ服従だとしても、それは「主体的・自己決定的な」服従であり、
一見、奔放な妹の導きもあって過去の軛から解放されたかに思えても、
心の芯では過去を背負い、過去に殉じて生きていく。
まるで、亡夫の「暗い眼差し」を引き受け、
闇を継承していくかのように。それは
「今を生きる」などという自己弁護的で自己陶酔じみた薄っぺらな
言葉では語れない、昭和の女性ならではの「武断」だと思います。
妻の妹である「現代っ子」を演じる高峰秀子は、
その溌溂としたコメディエンヌぶりが意外でした。
僕は成瀬巳喜男監督「浮雲」「稲妻」での
この人しか知らなかったのですが、本来は
こういう明るいキャラの女優さんだったんでしょうね。
古風な姉に反発する我儘なお転婆娘に見えながら、
陰に陽に姉を助ける役どころが、とても印象的でした。
最後に余談を。
最近、シャンタル・アケルマン監督の
「ジャンヌ・ディエルマン……」を観ました。
ここ数年で観た映画の中では聞きしに勝る衝撃作で
「自分は映画ファンとして、やっぱり
こっちサイドの人間なのかなあ」などと思い、
色々と考えさせられる所あった訳ですが、その一つとして、
固定カメラの厳密なフレーミングの中を
人物が出入りしたり移動したりして、
最後は「誰もいなくなった空間」が残る、それが
妙に意味ありげに感じられ、印象に残りました。
僕は、曾根中生監督の「夜をぶっとばせ」を
想起したりしましたが(あの映画の中では、それは
確かな効果を持っていたように思う)、考えてみたら、
それって小津監督が大昔からやってたことなんですよね。
それだけでも、小津監督の世界的な先進性が感得できます
(その「空虚な空間」や「ただの静物」のショットに、
ドゥルーズばりに特段な意味や解釈を
付与しようとは思わないけれど)。
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耐える姉と自由な妹の生き方を対比して最後に調和させる
「宗方姉妹(むねかたきょうだい)」(1950、新東宝、白黒、112分)。監督は小津安二郎、原作は大仏次郎の同名作(1949年6〜12月「朝日新聞」に連載)、脚本は野田高梧と小津安二郎、撮影は小原譲治、音楽は斎藤一郎。監督が初めて松竹以外の映画会社で作った作品。新東宝では本作、大映では「浮草」(1959)、宝塚/東宝では「小早川家の秋」(1961)───いずれも1作のみ。
京都大学の階段教室では、医学部教授「内田譲」(斎藤達雄)が、「ある頑固な病人」を例にして、癌の講義をしている。理論は頑固に負けるかもしれない、と。その老人「宗方忠親」(笠智衆)の長女「三村節子」(田中絹代)は、教授から余命は半年から一年という診断を聞かされる。一緒に東京から来た次女「宗方満里子」(高峰秀子)は、旧知の「田代宏」(上原謙)と再会する。彼はかつて姉の恋人だったが縁を結べず、「宏」は今も独身で、神戸で家具工房を営み、裕福だった。彼に「真下頼子」(高杉早苗)が接近しているのを「満里子」は知る。
一転し、舞台は東京へ。「節子」(田中絹代)は、元・技師で失業中の夫「亮助」(山村聰)、実妹「満里子」と暮らしている。「亮助」は虚無的で酒に溺れ、銀座のバーの雇われママをしている「節子」の稼ぎに依存している。夫婦仲は冷めているが、「節子」は夫に逆らえない。それが「満里子」には我慢できなかった。
バーが売りに出されることになり、「節子」は東京に来た「宏」に金策を頼む。「満里子」は、箱根の旅館に来てほしいという「頼子」の伝言を「宏」に伝えず、邪魔をした。
「節子」「宏」の仲を邪推した「亮助」は怒って「節子」に暴力を振るう。「節子」が離婚を決意しかけた時、「亮助」は発作で急死する。
夫の葬儀を済ませた「節子」は、かつての思い出の場所、奈良の薬師寺を「宏」と訪れる。
対照的な姉妹を演じた田中・高峰は好演。上原謙は相変わらずの二枚目ぶり。驚いたのは山村聰のデカダンスに堕ちた演技でした。「亮助」がなぜ失業し、このような酒浸りの生活に落ち込んだのかは描かれていないので、同情できないところが残念でした。「節子」は語ります。夫は「ただの死に方ではなかった気がしてきて あたし三村の死に方に暗いものを感じるんです あれっきり別れようと思ってた時に あんなことになって 三村はあたしに暗い影を残していったんです……」と。薬師寺で「節子さん 僕は待ってます いつまでだって」という言葉へ、「お別れします」と立ち去った「節子」は、「満里子」の洋品店に来て、さばさばと、しかも念入りに「宏」との別れを語り、「歩かない?」と誘います。姉妹が歩くのは銀座ではなく、京都御所であって、とても驚きました。
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激情の平手打ちは愛の裏返し
投稿日:2019/01/17
レビュアー:snap
小津作品7本目の鑑賞
性格が正反対で対照的な姉妹。
妹は茶目っ気たっぷりで当時でも現代っ子、姉は生真面目な日本女性の古いタイプ。
その二人が姉の過去の恋人と無職で冷淡な夫を巡ってのストーリーが展開する。
鑑賞後はどのようなテーマ性を持っていたのか理解するのに時間が必要なはずだったが、
特典映像の中にあった静止画像の当時の評論や監督、制作陣、役者へのンタビュー記事を読んで少し理解することができた。
本来、自分なりの何かの感想を見出すまでの時間を持ちたかったのであるが、小津映画を既に4本配送されていて次の鑑賞が目白押しの状態なので先を急ぐ。
ストーリーの舞台が東京と京都だけだと思っていたが、神戸があるのが分かったのは特典映像を見てからだった。
音声が不明瞭でセリフが聞き取りにくいためだったのか不明。
神戸は室内のシーンだから分からなかった。
どの作品でもそうだが終盤にならないとテーマ性は見えてこない。
だが前回見た“おはよう”では早々にそれを見て取ることができた。
この作品は自分には難易度が高かったように思った。
そして似た話が多いと言われる事がある小津映画の多様性に触れた気がした。
鑑賞中に感じたことは心の中に隠し持っている本当の感情は男女の間では隠し切れないものがあるのだという事だろうか。
そのきっかけは夫が妻の日記を読んでしまったことから始まる。
妻のほほを叩くシーンでは建前が通じない感情のぶつかり合いになったのが重苦しい。
そして妻はその負い目を引きずり、本来の幸せを成就させられない、自らさせないという悲しい選択をする。
それは愛した相手にも背負わせたくないという苦渋のものだった。
姉妹の考え方は新しいものと古いものと言う対照的な二人だが
姉はひろしとの関係で最後に自分らしい決断をする。
原作は別人による連載物だったようだが、
この作品で描かれた事について、どのようなテーマ性を見出すべきなのか、考えがまとまらない状態なので、他者のレビューの助けを借りたい。
夫が山村聡で“トラ・トラ・トラ”の山本五十六と同一人物とは全く気が付かなかった。
( 19件のレビュー閲覧後の感想 )
>自らの価値観を貫き、男尊女卑を否定するかのような芯の強さ、戦後の新しい女性像を見せる姉
− 私は日本女性の古いタイプと評したが、なるほどそうとも言えると感心した。
作品としての調和に欠けているところとして、父親の余命宣告が置き去りになっていると言う記述があったが、父親の存在は妹への語りの場面で必要性はあるように思った。
余命宣告された父親より先に急死する姉の夫のはかない命の対比に繋がっているように思った。
バーの壁にグラスを投げつけてコナゴナとなった飾り文字
これは象徴的なシーンかもしれない。
ただ“秋刀魚の味”での軍艦マーチのシーンほどのインパクトは無く、こちらは直接的な表現でもある。
>そんな考えの男に我が身を委ねることに女としての本能的な危機感が働き、
結局自分を一番愛してくれた人を想い、独りで生きる道を選ぶ。
− なるほど、そんな感じ方もある。
夫が妻に愛情を持っていなければ、激情の殴打のシーンは発生しえない。
夫が自分を思うよりも自分は夫を愛してはいなかった事への贖罪に縛られたからなのかを考えさせられる。
最後に姉の取った身の振り方で姉妹の人生観の違いが浮き彫りになる。
夫とひろしとではまるで違うタイプの男だったのは間違いがない。
>古き日本女性らしい強靭さは、(中略)スカーレット・オハラに見劣りするものではない。
− 節子の内面の強さに関して同様の記述が複数見れた。
>その作られすぎた<悲劇性>ゆえか、”東京暮色”も決して均斉がとれた美しき傑作として評価はされていない・・・(中略)・・・・我らが映画的サスペンスの何たるかを刺激してやまない。
− “東京暮色”に強烈な印象を持ったが、その共通点を見出せる記述。
( 晩春以降の小津映画12本鑑賞後の感想 )
小津映画で激情のある作品は限られていたが、そのどれもが性質の違うもだと感じた。
本作の他は“浮草”と “東京暮色”である。
“東京暮色”では娘が卑怯な男を平手打ちする。原節子の能面の様な抗議の激情がある。
“浮草”では言い争いがある。
嫉妬から端を発するのは同じだが単なる痴話喧嘩であり、本作の方はより深刻で切迫感があるのは、建前をかさに着た貞淑な妻に対する苛立ちであるがゆえだろう。
そのために下記に賛同した。
>この映画はある意味、強烈な愛の物語と言っても良いかも知れない。
( 引用した文章のレビューには投票させて頂きました )
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小津が小津調をスタイルとして客観化した作品
小津安二郎が監督した「晩春」以降の作品は小津調とよばれ、「晩春」で小津調が生まれ「東京物語」で完成したと、一般的には言われているようだが、私には「晩春」「麦秋」に対して「東京物語」は異質に感じられていた。全然違うじゃないか、と思っていた。それが「宗方姉妹」を見て、その間がつながったような気がした。小津の作品には
晩春─麦秋
(風の中の牝雞─)宗方姉妹─東京物語
という二つに性格分けできる作品の系統付けができるのではないか。小津調というと、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排すること、といったことが具体的に挙げられが、これらが、上記に作品に、すべて見られる。しかし、そのあらわれが異なって見える。「東京物語」では、その小津調がスタティックなのだ。スタイルがすでにあって、それに従って作品が作られている。つまりスタイルをなぞっているように見えるところがある。例えば移動撮影。田中絹代と高根秀子の姉妹が薬師寺を訪れたシーンで、寺の風景を横にためるように移動するカメラが映しだす。それは、「東京物語」と行き場を失くした老夫婦が上野で途方にくれて佇むシーンで、寛永寺の塀を移動で映したのを思い出した。固定ショットで画面をつくる小津の作品ではカメラが移動するのはただ事ではない、何かあったのでは見る者の心をざわめかせる。それが証拠に「晩春」では、心にもやもやを抱えた原節子をカメラが追いかけて移動するだけで、画面は不安を掻き立て、それが的中するように原節子は走り出し、感情を高ぶらせる。しかし、「宗方姉妹」の薬師寺のシーンでは何も起こらない。心のざわめきは宙ぶらりんになってしまう。「晩春」や「麦秋」では、そういう個々の小さなシーンが、それぞれ意味をもつように、物語を生んでいく。婚期の遅れた娘を愛しながら心配する父親とのやりとりというストーリーはあっても、小さな物語が遠心的に生じて作品に豊かな広がりをつくっていく。これに対して「東京物語」もそうなのだが、「宗方姉妹」では田中絹代演じる節子とかつての恋人宏と夫の三村の三角関係と、それを妹の高嶺秀子演じる満里子が絡んでくる。そのストーリーが中心となって、ドラマをつくる。いわゆる、小津調は、そのストーリーをうまく表わす手段となっている。そこでの俳優の演技はストーリーを内面化した心情を表わすロマンチックな、いわゆる役になりきるような演技だった。「宗方姉妹」にある激しい感情をあらわすような演技は「麦秋」では見られず、画面の中に俳優がいて、その全体がシーンをつくって物語を生んでいく外面の関係が心情を見るものに想像させるようなのだ。だから、「宗方姉妹」も「東京物語」にも悲劇的な要素を多く持っている。笠智衆は癌で余命が短い設定だし、節子が三村と別れることを決心した時に、当の三村は心臓麻痺で死んでしまう。節子は、そういう死の影に囚われて終わる。これに対して「晩春」も「麦秋」もスタートから死による欠落を抱えているが、それでも生き行こうとポジティブに終わる。
おそらく、この作品では新東宝という他社で、気心の知れた小津調を一緒に作ってきた小津組でないスタッフと小津調の画面をつくるために、突き放して、客観化した決まった形のスタイルとして認識したのではないか。画面をつくることがストーリーを生むことはできないので、物語の筋を中心的な柱として、作品を構成させた。その結果、「東京物語」に通じるような一貫したストーリーが、見る者には分かりやすいもの、シンプルで感情移入しやすくなる結果となった。
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ユーザーレビュー
保守的な田中絹代、現代的な高峰秀子、役柄だけどね
投稿日
2024/03/22
レビュアー
趣味は洋画
宗方姉妹 (1950年・新東宝、モノクロ、112分) 監督:小津安二郎
対照的な生き方を貫く姉妹の姿を通じ、戦後日本の家庭の崩壊を描いた作品です。
新しさ、古さとは何かという主題を提示しながらも、人間関係が複雑に絡む様子が見事に描かれています。
古風な生き方を貫こうとする姉の節子(田中絹代)と、束縛を嫌う妹の満里子(高峰秀子)の姉妹は、余命短い父(笠智衆)の状態を聞いて、一緒に暮らすようになる。節子の夫・亮助(山村聰)は失業中で、自信を無くして暗く心を閉ざしている。満里子は、冷たい夫に黙って耐える姉が気に入らない。そして節子が今でも昔の恋人、田代(上原謙)に想いを寄せていることを知り、2人の間を奔走する。一方、亮助は酒浸りの日々が続き、節子に対する態度は日増しに酷くなっていく。ある日、田代のもとへ真下頼子(高杉早苗)という女性が訪ねてくるが、居合わせた満里子は、真下の妙に気取った態度が気に入らない。やがて生活の先行きに不安を感じる節子は、銀座で経営するバーを手放そうと思案するが...。
あらためて登場人物と演者を御紹介します。
三村節子(田中絹代) :何事にも保守的で、日本の伝統的な価値観を重んじている。銀座でバーを経営しながら冷徹な夫に耐える日々を送っている。
宗方満里子(高峰秀子):節子の妹。自由奔放に生きる現代的な娘。行動派で気が強いが、ユーモアも持ち合わせている。
三村亮助(山村聰) :失業中で酒浸りの毎日。生きる希望を失って、自暴自棄になっている。妻や義妹に冷たい態度を取り続ける。
田代宏(上原謙) :節子の昔の恋人。神戸で家具屋を経営している。温和な性格で、すべてに紳士的。
宗方忠親(笠智衆) :節子、満里子姉妹の父親で、京都の寺で間借り住まいをしている。余命短いことを悟っている。
真下頼子(高杉早苗) :田代の友人で、大阪・北浜在住。自身は未亡人で、今は田代に気がある様子。
前島五郎七(堀雄二) :節子が経営するバー「アカシア」のバーテンダー。かつては特攻隊にいた。
他にも、飲み屋「三銀」の主人役で藤原釜足、「三銀」の女中キヨちゃん役で千石規子が出演しています。
高峰秀子演ずる満里子が、ペロッと舌を出すシーンがあります。
1回のときもあれば、1シーンで2回、3回のときもあるのですが、その仕草がとても可愛いのです。
大袈裟かもしれませんが、そのシーンを見るだけでも価値があると思います。
又、姉の日記を見て知った内容を、歌舞伎調の喋り方で田代に話すシーンは笑えます。
彼女は北海道・函館生まれで、本作出演時は26歳。
日本を代表する女優の一人として、1930年代から70年代にかけて、実に160本ほどの作品に出演しています。
個人的には成瀬巳喜男監督の「浮雲」(55年)、「流れる」(56年)、「女が階段を上る時」(60年)、「放浪記」(62年)、そして野村芳太郎監督の「張込み」(58年)、たった5本の鑑賞で、本作が6本目であることに気づきました。急遽、他の名作3本をリストインしたところです。
山村聰、堀雄二(かつてのTVドラマ「七人の刑事」の赤木係長役で有名)の両名が若く、観始めてしばらくは本人と分かりませんでした。
逆に千石規子は独特の風貌と声質で、すぐ彼女と分かりました。
更に、出演時46歳の笠智衆が、老けメイクで得意の老人役を好演しています。
前半から中盤は高峰秀子の利発さ、若々しさがストーリー全体を牽引していきます。
しかし後半からラストシーンにかけては、 ‘さすが田中絹代’ と感じさせる貫禄の演技に圧倒されます。
小津作品では「東京物語」(53年)や「お茶漬の味」(52年)も良かったのですが、本作における「姉妹の描かれ方」は素晴らしいです。
監督の期待にしっかりと応えた、田中絹代、高峰秀子、2人の大女優にあらためて敬意を表します。
妻の気高さ、夫の闇。
投稿日
2024/02/25
レビュアー
MIGHTY MOE AND JOE
最近、偶然手に取った某全国紙の記事で、
昨年の東京国際映画祭で小津安二郎監督の
生誕120年を記念したシンポジウムが
開かれたことを知りました。
その記事がとりわけ僕の関心を惹いたのは、
シンポに出席した黒沢清監督が小津監督の「宗方姉妹」について
「ここまで凄まじく断絶した夫婦関係を、
男性が無抵抗の女性に対してここまで酷い暴力を振るう瞬間を、
映画の中でほとんど見たことが無い」と語っておられたことでした
(コメント内容は同映画祭の公式サイトも参照)。
「断絶」はまだしも、あの小津映画の中で「暴力」とは……
がぜん興味を掻き立てられ、観てみることにしました。
その暴力シーン、確かに衝撃的です。
しかし、男が女を、夫が妻を「ぶつ」というのは、
コンプラ全盛の現在にあっては即アウトとはいえ、
ある時代までの日本社会では、よくあることだったんでしょうね
(「理に服する」ことを本能的に拒む女性の理不尽を
「力でたしなめる」ことのできた昔の男は、
偉かったとも言えるのです)。
とはいえ、本作ではその回数や前後の状況が酷い訳ですが。
耐え忍ぶ妻にとどめを刺すように暴力を振るう
失職中の夫(山村總)は、黒沢監督が仰るように
「極度のニヒリズムに陥っている」のだけど、
それにしても自堕落と甘えが目に余ります。
映画の中では夫の過去について詳述されませんが、
あの「デカダン気取り」は、果たして
妻と田代(上原謙)の過去の関係を知ったことだけが原因なのか。
そして、最後の「身の振り方」……
戦後間も無い頃でもあり、この夫が負う深い闇が気になります。
戦時中、よほど酷い精神的な外傷を負ったのか
(それにしては、外地での思い出を語る場面では珍しく朗らかだが)。
あるいは、引き揚げや占領など戦後の混乱期に根を持つのか。
いずれにせよ、夫は戦中戦後の経験から
あらゆる「人間的なもの」を信じられなくなっているのでしょう
(それは「人情味が無いから」という理由で猫を溺愛したり、
飲み屋の無学で気楽な女将や客には心を開くことからも窺える)。
そんな夫にとって、戦争を経験してもなお
「人間」や「道徳」を信じているような
妻の生きざまは苛立たしく、無私に尽くされるほど
自分が見下され、責められているように感じたのかもしれません。
一方、そんな夫を夜の仕事をしてまで支える妻役の
田中絹代の単独ショットが、本当に神々しい。
所作にも表情にも、気高く芯の強い品格が溢れています。
それは単なる「耐える妻」「貞淑な妻」という世間の道徳や旧習、
当時の女性に求められたロール・モデルへの服従ではなく
「時流に流されず、いつまで経っても古くならないことが
本当の新しさだ」という彼女なりの「哲学」に
支えられているからだと思います。
たとえ服従だとしても、それは「主体的・自己決定的な」服従であり、
一見、奔放な妹の導きもあって過去の軛から解放されたかに思えても、
心の芯では過去を背負い、過去に殉じて生きていく。
まるで、亡夫の「暗い眼差し」を引き受け、
闇を継承していくかのように。それは
「今を生きる」などという自己弁護的で自己陶酔じみた薄っぺらな
言葉では語れない、昭和の女性ならではの「武断」だと思います。
妻の妹である「現代っ子」を演じる高峰秀子は、
その溌溂としたコメディエンヌぶりが意外でした。
僕は成瀬巳喜男監督「浮雲」「稲妻」での
この人しか知らなかったのですが、本来は
こういう明るいキャラの女優さんだったんでしょうね。
古風な姉に反発する我儘なお転婆娘に見えながら、
陰に陽に姉を助ける役どころが、とても印象的でした。
最後に余談を。
最近、シャンタル・アケルマン監督の
「ジャンヌ・ディエルマン……」を観ました。
ここ数年で観た映画の中では聞きしに勝る衝撃作で
「自分は映画ファンとして、やっぱり
こっちサイドの人間なのかなあ」などと思い、
色々と考えさせられる所あった訳ですが、その一つとして、
固定カメラの厳密なフレーミングの中を
人物が出入りしたり移動したりして、
最後は「誰もいなくなった空間」が残る、それが
妙に意味ありげに感じられ、印象に残りました。
僕は、曾根中生監督の「夜をぶっとばせ」を
想起したりしましたが(あの映画の中では、それは
確かな効果を持っていたように思う)、考えてみたら、
それって小津監督が大昔からやってたことなんですよね。
それだけでも、小津監督の世界的な先進性が感得できます
(その「空虚な空間」や「ただの静物」のショットに、
ドゥルーズばりに特段な意味や解釈を
付与しようとは思わないけれど)。
耐える姉と自由な妹の生き方を対比して最後に調和させる
投稿日
2022/05/19
レビュアー
ちゅく
「宗方姉妹(むねかたきょうだい)」(1950、新東宝、白黒、112分)。監督は小津安二郎、原作は大仏次郎の同名作(1949年6〜12月「朝日新聞」に連載)、脚本は野田高梧と小津安二郎、撮影は小原譲治、音楽は斎藤一郎。監督が初めて松竹以外の映画会社で作った作品。新東宝では本作、大映では「浮草」(1959)、宝塚/東宝では「小早川家の秋」(1961)───いずれも1作のみ。
京都大学の階段教室では、医学部教授「内田譲」(斎藤達雄)が、「ある頑固な病人」を例にして、癌の講義をしている。理論は頑固に負けるかもしれない、と。その老人「宗方忠親」(笠智衆)の長女「三村節子」(田中絹代)は、教授から余命は半年から一年という診断を聞かされる。一緒に東京から来た次女「宗方満里子」(高峰秀子)は、旧知の「田代宏」(上原謙)と再会する。彼はかつて姉の恋人だったが縁を結べず、「宏」は今も独身で、神戸で家具工房を営み、裕福だった。彼に「真下頼子」(高杉早苗)が接近しているのを「満里子」は知る。
一転し、舞台は東京へ。「節子」(田中絹代)は、元・技師で失業中の夫「亮助」(山村聰)、実妹「満里子」と暮らしている。「亮助」は虚無的で酒に溺れ、銀座のバーの雇われママをしている「節子」の稼ぎに依存している。夫婦仲は冷めているが、「節子」は夫に逆らえない。それが「満里子」には我慢できなかった。
バーが売りに出されることになり、「節子」は東京に来た「宏」に金策を頼む。「満里子」は、箱根の旅館に来てほしいという「頼子」の伝言を「宏」に伝えず、邪魔をした。
「節子」「宏」の仲を邪推した「亮助」は怒って「節子」に暴力を振るう。「節子」が離婚を決意しかけた時、「亮助」は発作で急死する。
夫の葬儀を済ませた「節子」は、かつての思い出の場所、奈良の薬師寺を「宏」と訪れる。
対照的な姉妹を演じた田中・高峰は好演。上原謙は相変わらずの二枚目ぶり。驚いたのは山村聰のデカダンスに堕ちた演技でした。「亮助」がなぜ失業し、このような酒浸りの生活に落ち込んだのかは描かれていないので、同情できないところが残念でした。「節子」は語ります。夫は「ただの死に方ではなかった気がしてきて あたし三村の死に方に暗いものを感じるんです あれっきり別れようと思ってた時に あんなことになって 三村はあたしに暗い影を残していったんです……」と。薬師寺で「節子さん 僕は待ってます いつまでだって」という言葉へ、「お別れします」と立ち去った「節子」は、「満里子」の洋品店に来て、さばさばと、しかも念入りに「宏」との別れを語り、「歩かない?」と誘います。姉妹が歩くのは銀座ではなく、京都御所であって、とても驚きました。
激情の平手打ちは愛の裏返し
投稿日
2019/01/17
レビュアー
snap
小津作品7本目の鑑賞
性格が正反対で対照的な姉妹。
妹は茶目っ気たっぷりで当時でも現代っ子、姉は生真面目な日本女性の古いタイプ。
その二人が姉の過去の恋人と無職で冷淡な夫を巡ってのストーリーが展開する。
鑑賞後はどのようなテーマ性を持っていたのか理解するのに時間が必要なはずだったが、
特典映像の中にあった静止画像の当時の評論や監督、制作陣、役者へのンタビュー記事を読んで少し理解することができた。
本来、自分なりの何かの感想を見出すまでの時間を持ちたかったのであるが、小津映画を既に4本配送されていて次の鑑賞が目白押しの状態なので先を急ぐ。
ストーリーの舞台が東京と京都だけだと思っていたが、神戸があるのが分かったのは特典映像を見てからだった。
音声が不明瞭でセリフが聞き取りにくいためだったのか不明。
神戸は室内のシーンだから分からなかった。
どの作品でもそうだが終盤にならないとテーマ性は見えてこない。
だが前回見た“おはよう”では早々にそれを見て取ることができた。
この作品は自分には難易度が高かったように思った。
そして似た話が多いと言われる事がある小津映画の多様性に触れた気がした。
鑑賞中に感じたことは心の中に隠し持っている本当の感情は男女の間では隠し切れないものがあるのだという事だろうか。
そのきっかけは夫が妻の日記を読んでしまったことから始まる。
妻のほほを叩くシーンでは建前が通じない感情のぶつかり合いになったのが重苦しい。
そして妻はその負い目を引きずり、本来の幸せを成就させられない、自らさせないという悲しい選択をする。
それは愛した相手にも背負わせたくないという苦渋のものだった。
姉妹の考え方は新しいものと古いものと言う対照的な二人だが
姉はひろしとの関係で最後に自分らしい決断をする。
原作は別人による連載物だったようだが、
この作品で描かれた事について、どのようなテーマ性を見出すべきなのか、考えがまとまらない状態なので、他者のレビューの助けを借りたい。
夫が山村聡で“トラ・トラ・トラ”の山本五十六と同一人物とは全く気が付かなかった。
( 19件のレビュー閲覧後の感想 )
>自らの価値観を貫き、男尊女卑を否定するかのような芯の強さ、戦後の新しい女性像を見せる姉
− 私は日本女性の古いタイプと評したが、なるほどそうとも言えると感心した。
作品としての調和に欠けているところとして、父親の余命宣告が置き去りになっていると言う記述があったが、父親の存在は妹への語りの場面で必要性はあるように思った。
余命宣告された父親より先に急死する姉の夫のはかない命の対比に繋がっているように思った。
バーの壁にグラスを投げつけてコナゴナとなった飾り文字
これは象徴的なシーンかもしれない。
ただ“秋刀魚の味”での軍艦マーチのシーンほどのインパクトは無く、こちらは直接的な表現でもある。
>そんな考えの男に我が身を委ねることに女としての本能的な危機感が働き、
結局自分を一番愛してくれた人を想い、独りで生きる道を選ぶ。
− なるほど、そんな感じ方もある。
夫が妻に愛情を持っていなければ、激情の殴打のシーンは発生しえない。
夫が自分を思うよりも自分は夫を愛してはいなかった事への贖罪に縛られたからなのかを考えさせられる。
最後に姉の取った身の振り方で姉妹の人生観の違いが浮き彫りになる。
夫とひろしとではまるで違うタイプの男だったのは間違いがない。
>古き日本女性らしい強靭さは、(中略)スカーレット・オハラに見劣りするものではない。
− 節子の内面の強さに関して同様の記述が複数見れた。
>その作られすぎた<悲劇性>ゆえか、”東京暮色”も決して均斉がとれた美しき傑作として評価はされていない・・・(中略)・・・・我らが映画的サスペンスの何たるかを刺激してやまない。
− “東京暮色”に強烈な印象を持ったが、その共通点を見出せる記述。
( 晩春以降の小津映画12本鑑賞後の感想 )
小津映画で激情のある作品は限られていたが、そのどれもが性質の違うもだと感じた。
本作の他は“浮草”と “東京暮色”である。
“東京暮色”では娘が卑怯な男を平手打ちする。原節子の能面の様な抗議の激情がある。
“浮草”では言い争いがある。
嫉妬から端を発するのは同じだが単なる痴話喧嘩であり、本作の方はより深刻で切迫感があるのは、建前をかさに着た貞淑な妻に対する苛立ちであるがゆえだろう。
そのために下記に賛同した。
>この映画はある意味、強烈な愛の物語と言っても良いかも知れない。
( 引用した文章のレビューには投票させて頂きました )
小津が小津調をスタイルとして客観化した作品
投稿日
2018/09/23
レビュアー
czt
小津安二郎が監督した「晩春」以降の作品は小津調とよばれ、「晩春」で小津調が生まれ「東京物語」で完成したと、一般的には言われているようだが、私には「晩春」「麦秋」に対して「東京物語」は異質に感じられていた。全然違うじゃないか、と思っていた。それが「宗方姉妹」を見て、その間がつながったような気がした。小津の作品には
晩春─麦秋
(風の中の牝雞─)宗方姉妹─東京物語
という二つに性格分けできる作品の系統付けができるのではないか。小津調というと、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排すること、といったことが具体的に挙げられが、これらが、上記に作品に、すべて見られる。しかし、そのあらわれが異なって見える。「東京物語」では、その小津調がスタティックなのだ。スタイルがすでにあって、それに従って作品が作られている。つまりスタイルをなぞっているように見えるところがある。例えば移動撮影。田中絹代と高根秀子の姉妹が薬師寺を訪れたシーンで、寺の風景を横にためるように移動するカメラが映しだす。それは、「東京物語」と行き場を失くした老夫婦が上野で途方にくれて佇むシーンで、寛永寺の塀を移動で映したのを思い出した。固定ショットで画面をつくる小津の作品ではカメラが移動するのはただ事ではない、何かあったのでは見る者の心をざわめかせる。それが証拠に「晩春」では、心にもやもやを抱えた原節子をカメラが追いかけて移動するだけで、画面は不安を掻き立て、それが的中するように原節子は走り出し、感情を高ぶらせる。しかし、「宗方姉妹」の薬師寺のシーンでは何も起こらない。心のざわめきは宙ぶらりんになってしまう。「晩春」や「麦秋」では、そういう個々の小さなシーンが、それぞれ意味をもつように、物語を生んでいく。婚期の遅れた娘を愛しながら心配する父親とのやりとりというストーリーはあっても、小さな物語が遠心的に生じて作品に豊かな広がりをつくっていく。これに対して「東京物語」もそうなのだが、「宗方姉妹」では田中絹代演じる節子とかつての恋人宏と夫の三村の三角関係と、それを妹の高嶺秀子演じる満里子が絡んでくる。そのストーリーが中心となって、ドラマをつくる。いわゆる、小津調は、そのストーリーをうまく表わす手段となっている。そこでの俳優の演技はストーリーを内面化した心情を表わすロマンチックな、いわゆる役になりきるような演技だった。「宗方姉妹」にある激しい感情をあらわすような演技は「麦秋」では見られず、画面の中に俳優がいて、その全体がシーンをつくって物語を生んでいく外面の関係が心情を見るものに想像させるようなのだ。だから、「宗方姉妹」も「東京物語」にも悲劇的な要素を多く持っている。笠智衆は癌で余命が短い設定だし、節子が三村と別れることを決心した時に、当の三村は心臓麻痺で死んでしまう。節子は、そういう死の影に囚われて終わる。これに対して「晩春」も「麦秋」もスタートから死による欠落を抱えているが、それでも生き行こうとポジティブに終わる。
おそらく、この作品では新東宝という他社で、気心の知れた小津調を一緒に作ってきた小津組でないスタッフと小津調の画面をつくるために、突き放して、客観化した決まった形のスタイルとして認識したのではないか。画面をつくることがストーリーを生むことはできないので、物語の筋を中心的な柱として、作品を構成させた。その結果、「東京物語」に通じるような一貫したストーリーが、見る者には分かりやすいもの、シンプルで感情移入しやすくなる結果となった。
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