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荒野で狩をしていたベトナム帰還兵のモスは、偶然ギャングたちの死体と麻薬絡みの大金200万ドルを発見。その金を奪ったモスは逃走するが、ギャングに雇われた殺し屋シガーは、邪魔者を次々と殺しながら執拗に彼の行方を追う。事件の発覚後、保安官のベルは二人の行方を探るが、彼らの運命は予測もしない衝撃の結末を迎え・・・。
前半の追跡劇の緊張感はただものではない。モスが偶然銃撃戦の跡を発見したシーンから、コーエン兄弟の語りに完全にはまった。荒野に集まる5台の小型トラックを遠景で見せた後、現場に近づくモスの足元のアップ、やがて視界に血まみれの死体が入る。モスの歩みに従いゆっくり惨劇の全体像が見えてくる。砂を踏む足音しか聞こえない静寂。まさに死の静寂だ。そう取り乱した様子もないところから彼が戦場経験者、ベトナム帰還兵であることもわかる。200万ドルの入ったトランクを持ち去ろうするとき、不吉な前途を暗示するかように、晴れていた空は一面灰色の雲に覆われている。素人でもこれ、ずいぶん編集にこだわったのだなとわかる絶妙の見せ方。どうしたって画面に集中させられてしまう。
しかし、この映画の、というより原作「血と暴力の国」のだろうか、内容にはどうしても受け入れられない部分がある。最大の不満は殺し屋シガーをこの世を超越した「純粋悪」、心の闇や社会の闇を超えた、人間発祥とともにある「世界の闇」と見なしていることだ。簡単に言えば、ふつうの人間では決して勝てない「殺しの神様」として祭り上げてしまっているところが気に入らない。「死に神」あるいは「死そのもの」とする見方もあるが、こうなるともうシガーは絶対権力者、その前では人間はひれ伏す以外ないということになる。モスは健闘したが負けることは最初から決まっていた。はじめから戦わない保安官は賢明だった。これではシガーに無慈悲に殺された一般市民があまりに哀れではないか。映画の後半は、200万ドルの件はどこかに飛びシガーの悪のこの超越性が語られる。
「この国は人に厳しい」という台詞がある。建国以来の暴力の歴史、今もますます社会にはびこる暴力に絶望感や無力感を抱く気持ちはわかる。状況はアメリカも他の国々も同じだ。まさにノーカントリー、逃れる場所はどこにもない。しかし殺戮や暴力を人間の「宿命」とか、「本能」として受け入れてしまったら最後のような気がする。暴力ほどではないが人々のカネへの執着がチクリと批判されていたのもおもしろかった。重傷を負ったシガーから血まみれの紙幣を受け取る少年たちの姿には暗澹とした。
逆にかすかであっても希望の光を感じた場面があった。保安官の夢の話ではない。先に行く父親が道を間違えることだってある。あれはアカデミー賞向けのサービスだろう。それよりも断固として居住者情報をシガーに教えることを拒否したトレーラーハウスの管理人(中年女性)とコイントスを最後まで拒んで散ったモスの妻の姿に深く感動した。「決めるのはあなたでしょ。」
宿命ではなく、善も悪も人間の意思のうちにあると、信じたい。
ぴんと張り詰めた傑作。
前年のカンヌ映画祭では、無冠に終わった本作が、アカデミー賞を総なめにした訳は、アメリカ社会の縮図がそこにあったような気がします。
ハンターのルウェリンは、狩の途中で、死体の傍に200万ドルの大金と大量のヘロインを発見し、危険を感じながらも、お金を奪って逃走。
麻薬組織が放った殺し屋シガーが、大金の目星をつけてルウェリンを執拗に追跡。
そしてさらには、事件の匂いを嗅ぎ取った保安官がさらにその後を追いかけるという三つ巴の争いが、まるでゲームを見ているかのようでした。
何といっても、殺し屋シガーが物凄く怖かったです。
ちょっと私には、生理的に受け付けないタイプです。
コイントスの1つで、その人間の生死を決めてしまう彼には、いったい人の血が流れているのでしょうか?
彼は、目的のためなら、手段を選ばずに、彼の前に立ちはだかるもの全てを、容赦なく消し去る。
しかし、彼は怪我をすれば、血も流すし、間違えなく人間なのですが、いったい、人間らしい感情はどこにいってしまったのでしょうか?
この感情を持ち合わせていない殺戮マシーンは、ベトナム戦争から帰還し、感情を失ってしまった単なる殺戮兵器のように感じてしまいました。
冒頭のシーンで、保安官が、父親から貰ったお金をなくした夢と、冬山の遠く離れた闇の中で、松明を持って待っているのですが、それが、未来に繋がる微かな希望の明かりだったのでしょうか?
いずれにせよ、この作品は、アメリカという国と歴史を象徴していることには、なんとなく想像が付きます。
感情を失ってしまった殺戮マシーンが、どの様な運命をたどるのか?気になるところです。
一度観て「凄いフィルムだ」との認識はあったが、何しろ判断に困る作品ということで、ひとまず保留した。原作『血と暴力の国』を読んでからかな、と。さぞやコーエンに脚色されまくってるんだろうと思って読んでみれば、ほとんどが原作通り、見事に忠実な作りだったので、驚いてしまった。つまりは観て、感じたままで良かったのだ。
極力、状況説明も心理描写も省かれている。そのことが、観客を何が起こっているか分からない不安な気持ちに巻き込んでゆく。おそろしいのは、暗殺者Chigurhシガーの行動規範が分からないところだ。「殺人狂である」とか、「職業的暗殺者」であるとかの、既存の何かに当てはまらない無い存在。原作者マッカーシーはシガーを純粋悪(pure evil)と称している。純粋悪に理屈は無い。ただ殺すと決めた人間を、感情に左右されず、ただ確実に、純粋に殺してゆくだけなのだ。
この話の一番残酷なところ、それはモスの慈悲の心が、破滅を呼ぶところだ。悲劇はモスが「金を持ち逃げした」から起こったのでは無い。「慈悲心を出して水を与えに戻った」せいで起こったのだ。堂々と悪事を成せば良かったのに、わずかながらの仏心を出してしまったせいで、無慈悲な純粋悪との遭遇を呼んでしまった。この残酷な仕掛けが、単なるクライムストーリーから一歩外れたドラマを作りだしている。
「何が言いたいのか、わからなかった」とのレビューも相当数あるようだ。確かにただひたすら悪が行使され、正義の様なものはただ無力なばかりという、ストーリーにもなっていない話に見える。だがこれこそが、80年代以降の憂鬱な世界を象徴している姿だともいえるのだ。老保安官が感じる徒労感こそが、このストーリーの眼目だ。この話が「理解出来る」という方は失礼ながら、だいぶ嫌な世界を見知っていて、慣れきってしまっている人なのかもしれない。
アメリカが「ノー・カントリー(フォー・オ−ルド・メン)」「老人の住める国にあらず」(これ、イエーツの詩にあるセンテンスらしいが)というのは、申し訳ないが、みんな知っていることだ。
「アメリカ人は」なんて、乱暴極まりない括りはしたくないが、あえて言いたい。本当に彼達は分かっているのだろうか?自国をそんな国にしたのは、他ならぬ自分達の選択であり、その反省をしようともしないこと。あまつさえ、その災禍を全世界に広げ続けていることを。ガザの虐殺こそ、ノー・カントリー・フォー・チルドレンだ。
アカデミーがこの作品に賞を与えたのは、まさか自虐思想ではあるまいな。