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朝の宝石店ティファニーの前でデニッシュを食べる娼婦のホリーは、引っ越してきたばかりの駆け出し作家ポールと出会う。酔っぱらいから逃げて部屋へ来て、眠り込んでしまった彼女にポールは興味を抱く。ホリーの夫ドクが彼女を連れ戻そうとするが、彼女は断ってしまう。ホリーがブラジルの外交官と結婚するのを知って傷ついたポールは、小説を売って得たお金をつきつけるが…。輝く宝石のようなオードリーの魅力をちりばめた、素敵でおしゃれなラブ・ストーリー。彼女と駆け出しの作家ポールとのロマンスは、アカデミー賞(R)にも輝いたヘンリー・マンシーニの主題歌「ムーン・リバー」のメロディと共にいまも多くの女性の心を捉えて離しません。
ホリーの魅力は、次に何を言うのか?何をするのか?全く思いがけない言動にあるのだと思います。
ポールも彼女に振り回されながら、その魅力にハマったのでしょう。ホリーは多分、娼婦。(あまりに彼女が、あっけらかんとしているため、そうは見えない)
ポールは、内装を手がける女をパトロンに持っている。
二人とも、身を売ってお金を得ているのだから、立場的には同じかな。
この作品は何度もビデオで観ていますが、今回は久しぶりでした。
窓辺でホリーが「ムーン・リバー♪」とギターの弾き語りをする場面がありますが、何故かこの歌は、マリリン・モンローが舟の上で歌っていたように思えて、仕方がありませんでした。
観終えてからレビューを見てびっくり!ホリーはマリリン・モンローを思い描いて書かれたらしいじゃないですか。
マリリンならどういうホリーになったのか、見てみたかったです。
観るたびに不満に感じるのは、日本人の描き方です。
出っ歯で眼鏡は「日本人」の特徴だと思われていたのですね。
がっかりです。
スマートで素敵だと感じたのは、ティファニーでホリーとポールを接客してくれた、男性の店員。
恥をかかせないように、予算内の品(電話のダイヤル回しなんて物があることにもビックリ)を選び、親切で丁寧で、プロの接客ですね。
しかし、何といってもこの作品の魅力は、オードリーのファッションと彼女の華奢な魅力だと思います。
あまりにも有名なこの作品。一度は観てみるのも、いいのではないでしょうか。
カポーティは、最初この主人公ホリーに、マリリン=モンローを望んだそうですね。
まぁ、原作を知っている私としても、
原作のストーリーに沿って作るなら、その方が合ってた気がします。
これほど、原作と映画のキャラクター、それも主人公と副主人公までもが真逆で
結末も真逆というのも珍しい(笑)
ただ・・・・・
原作ではホリーの設定は18歳でして、
みなさん、ちょっと考えればご想像がつくと思いますが、
18歳の少女が、しばしば、【職場帰り】に、五番街をうろつく
さて。少女の職業は・・・
そう、そうです、世界最古の女性の職業です(苦笑)
映画では、ヘプバーンのあっけらかんとした印象の演技と可憐さが強すぎて
そこら辺の闇の部分は(恐らくハリウッド化にあたって意図的に)消されてしまっていますが、
要は
「人は、もって生まれた運命と自分という与えられた器量でいきていくしかないじゃないの
私は、もって生まれた、この容色と若さを使って
いつか、5番街(ティファニー本店所在地=かなり前の東京で言う銀座四丁目、ちょっと前の六本木ヒルズ(苦笑)みたいなとこ)で
暮らすような境遇を掴んで見せるわ」
という、かなーり醒めた、そしてすれた感じの少女なんですね、ホリーは(笑)
憧れ、そして諦観ともいえる楽観主義と裏に見える寂しさ
その象徴がホリーにとっての、【ティファニー】であり
ポールにとっての【ティファニー】のウィンドウを眺めながらするホリーの【朝食】なわけです。
原作では恐らくというか確実に、ポールはホリーの【職業】を知っている。
そして知っているからこそ、自分を含めて(彼もまた、己の才能と芸術のみでは食っていけない【パトロンもち】です)
ホリーに似た、諦観をもって、そして憧れとある種の寂しさをかかえてホリーをみている。
原作では、ホリーはやはり、ブラジルにいってしまうんです。
そしてその後は誰も知らない。
私はハッピーエンドが大好きですが(笑)
原作とは無関係に、そして無条件にハッピーエンドを愛すわけではありません(苦笑)
ただし、もし、更に穿ってみて
原作を知った上で、あえてヘプバーンがあの演技をしたなら
それはまた「深い」ですね(笑)
とにもかくにも、
原作も小説も、カポーティというかなり特異な人生を生きた
作家の光と影をうつしているような気がしてなりません。
筋金入りのオードリーファンを自認していながら、実はこの作品と、シャーリー・マクレーンとの共演作「噂の二人」の2本は若い頃何回か観ましたが苦手でした。私も歳を取りましたし、最近はレビューなど書くようになったので、久しぶりに再鑑賞してみる気になり、レンタルしました。
やはりダメでした。それどころか、若い頃よりもっと違和感が強くなっていて全く楽しめませんでした。
映画が気に入らないので原作も読んでいませんが、ホリーという主人公は劇中マーティン・バルサム演ずるハリウッドのプロデューサーに言わせると「本物の贋物」だそうで、毎晩パーティーに呼ばれては化粧室に行くたびに男から50ドルせしめ、機転の利いたジョークと思わせ振りな仕草で男を翻弄し、部屋まで送らせておいて門前払いを喰わせた男を「鼠」と嘲り、貧乏から拾い上げて愛してくれた気の良い田舎の子持ち中年男から逃げ出してN.Y.に来て、金持ち男(スペシャルな鼠)との結婚を狙う、という正に筋金入りの贋物女ですが、罪悪感や自己嫌悪やチャチな自己正当化とも無縁なところが妙に爽やかで、高級宝石店「ティファニー」の前でファストフードの朝食を取る姿がキマっている「アンチヒロイン」です。この「贋物であることへの罪悪感、自己嫌悪の欠如」と言う意味では、映画が公開された1961年のアメリカや私が観た1969年の日本では「アンチヒロイン」たり得たホリーも、アメリカでも日本でも「本物の贋物」女など珍しくも無くなった現代では形無しの感がありますが、これは時代の流れで致し方無いのでしょう。
しかし、オードリーファンとして私が今回明確に理解したのは、オードリーに「アンチヒロイン」を演じさせたことがこの映画の最大の失敗だったということです。オードリー・ヘプバーンという女優は、男の外面(容貌、財力、年齢、地位、そして社会的正邪すらも)を容易く通り抜けてストレートに内面の愛に語りかける「本物の」ヒロインを演じることの出来る稀有な女優であり、現実には「あり得ない」、映画の中だけに存在する(贋物の)と言う意味で「贋物の本物」なのですから、観ていてどうしようもなく違和感があるのは当然なのだと思います。
原作では映画と違ってホリーはポールと結ばれること無く去って行くのだそうですし、映画のホリーは随分オードリーキャラに書き換えられているそうですが、根本的なミスキャストは原作の本質をブチ壊すだけでなく、映画そのものの出来をもブチ壊してしまうという典型だと思います。