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スタンリー・キューブリック監督が最後の作品で挑んだ多くの事柄。それは性的な精神世界への旅立ちである。心に浮かぶ妄想、決して目が離せないサスペンス。トム・クルーズとニコール・キッドマンのキャリアにおける画期的な事件、そして”偉大な監督にふさわしい最終章”(ロジャー・エバート「シカゴ・サンタイムズ)クルーズ扮するウィリアム・ハーフォード医師は妻より性の欲望を告白され、彼の結婚生活をおびやかすほどのエロティックな衝撃に埋没していく。-そして彼を恐ろしい殺人事件の罠にまで巻き込んでいく-全編を通じキューブリックが奏でる、疑惑と恐怖からの自己の発見と調和。優雅な撮影、計算し尽くされたテンポ、優美な色彩、そして驚くべき映像。キューブリックを長年の間フィルム・メーカーとせしめたその大胆で華麗な演出は、全ての人の目を見開かせることであろう。
キューブリック三題話になったな レヴューを分けて続きものにするのもいいな 最近みんなレヴュー長いの多いからな
この作品の結構はいつも通り 荒が目立ちシュニツラーの簡単な短編に 夫婦の愛と性の凡庸な主題がからんだものだ それを3時間近くかけて見せる執念には目を瞠る
俺が述べた 深く主題を追求しないキューブリックの特徴が 誰の目にもわかるように露呈されたかのような作品 不評のはずだ
ここではもう主題なんかどうでもいいのだ すかすかの物語の展開 舞台装置の重厚な素晴らしさ 日常性の仔細な描写と 適当な幻想性 そのちぐはぐな構築物から晩年のキューブリックの生々しく淫靡な 性なのか生であるのか判然とせぬものへの あからさまな執着がぎらぎらとせまり 胸を撃つとゆうか動揺してしまう キューブリックがおのれをさらけだしているのだ キューブリックの映画に対し初めて 俺は感動したと言っておきたい
幻想の中で老人の生なエロスの願望が展開される 大人の映画
ここではクルーズとキッドマン主演が主題を越える要請なのだ
二人の若さと美しさがあらためてまぶしい
オーソドックスな夫婦の物語である。
妻は、満たされた暮らしの中で一つの秘密を持っていた。それは、旅先で出会った男への恋慕・・・抱かれたいと夢見た事実・・・である。 夫は、彼女の夢を自分の想念の中で現実化し、その妄想にかき立てられて夜の街を彷徨する。二人は、夢であれ現実であれ、互いに相手から裏切られた(裏切られそうになった)事におののき傷つく。しかし、すべてを語りあった後に彼らの間に残されていたのは、「危機を乗り越えられた」と実感できる信頼関係であった。
シュニッツラーの原作は、意識下にうごめく欲望に時に飲み込まれそうになりながらも、最終的には二人で歩んでいこうと決意する夫婦の姿を描いていた。映画の方も骨格は同じ、それどころか細かいエピソード、セリフに至るまで忠実と言っていい。が、これが巧妙なだまし絵のごとく、もう一つの異なる絵が見えてきたのはキューブリックの意図とは無関係か。ともあれ、私には夫の“不能”を巡っての夫婦の物語にも思えたのだ。
二人の間の溝は始まりから見えてくる。鏡の前の抱擁でも、妻は鏡に映る自分たちの姿を冷ややかに睥睨し、その後のシーンはない。その翌日、彼女は自分以外の女性に欲情することはないのかと夫に執拗に訊ねた挙げ句、例の告白をする。
このやりとりからは、妻が夫の浮気(愛人の存在)を疑っていると言うより、自分以外の女性との性交の有無に拘っているのが分かる。彼が路上で学生に「ホモ」と罵倒されるのも象徴的である。
岸田秀の『性的唯幻論序説』によれば、人間は性本能が壊れた動物で、基本的に不能な為その克服に幻想を要するという。妻の告白は、夫が不能を克服するための刺激=幻想になり得たのかもしれない。彼は、以後その妄想に突き動かされてひたすらに性行為を求めて行動するのだから。その後も妻は、挑発的な夢の話(夫が体験した秘密のパーティに良く似たシチュエーションで、彼の行動を見透かしたかのよう)や、彼が怪しげな集いに出かけた証となる仮面を使って、夫の言動を支配してしまう。
結局、心配していた情事の事実はなく、不治の病やら殺人やら、家庭外での性行為には何かと危険が付きまとう(?)ことを思い知った夫は、帰るべき所へ帰っていく。そしてラスト。「これから、どうしよう」と訊ねる夫に妻の決め台詞。
セックスレスではいられない、ラブラブな夫婦のオーソドックスな物語である。
キューブリックは「この映画は自分の最高傑作だ」と言っている。(出所WWW.IMDb.com)
予想と違ってすごく面白い。
次々にいろんな人間が出てきて、展開がワクワクする。
オープニングにショスタコーヴィチのワルツが流れる。
ビルがステレオのスイッチを切るとその音楽が止まるので、
この夫婦が聴いていたのだと分る。
つまり、ショスタコーヴィチを聴き、絵を飾り、教育も教養もお金もある上流階級の
白人夫婦だということがまず示される。
パーティーでアリスが「知っている人はいるの?」とビルに聞くと
「ひとりもいない」というので、この夫婦は、より上流の集まるこのパーティーの階層には属していない
ということが分かる。つまり、このパーティーはスーパー上流の男たちとその女(妻かも)の集まり。
アリスがハンガリー人のおじさんにナンパされます。
いきなりの話題で「オウィディウスの”愛の技法”を読んだことあるか?」と聞いてくる。
この字幕じゃ分からないが、英語で「ラテンの詩人の」と言っている。
ラテン語の古典を読んだことがあるのはヨーロッパの教養人の属性で
日本人にもアメリカ人にもほとんどいない。
どのくらい教養がある女なのか、チャレンジしてきている訳だ。
アリスはかろうじてオウィディウスの末路を答えたけど、
なんという場所で死んだかは言えなかった。
じゃ、読んでないな、と判断されて、でも彼女を傷つけないように
「でも彼はその末路にいたる前はいい人生を送りましたよ」と話題を終わる。
しびれる。最初にアリスのシャンパンをこのおじさんはわざと飲んでしまう。
実はこれはその”愛の技法”に書いてある技法だ。
このおじさんは
ヴィクターの友達として、またスーパー上流の人物像として強烈な印象を残して去る。
次はビルの人物描写が始まる。
二人のモデルにつかまって、何か話している。
(この二人の職業がモデルだということはモデル歩きするので分かる)
「ヌアラってどう綴るの?」
あー、つまらない話題。女の扱い方もヘタ。
「これからいったいどこへいくのかな」
自分からどうするという事を言えない男。
ビルは困ってるところでヴィクターに呼ばれる。
困ったときに他からの力でその場から逃れる。自分で解決しない。
ヴィクターが呼んだ理由はバスルームでコールガールがクスリで人事不省になったから。
あの部屋は、普通の部屋かと思うぐらい広いけどバスルームなんだね。ちゃんとバスタブが映ってる。
ビルとアリスのバスルームと比べていかにクラスが違うかを映像で示している。
ヴィクターはさっき奥さんといたのに、そのあとコールガールとセックスしていた。
スーパー上流の倫理観が提示される。
翌日の夕方、二人の口論が始まる。
アリス「と言うことはつまりあなたがモデルたちとファックしないのはわたしのためだってこと?
本当はしたいんだけど!」
この二行目の字幕は翻訳が間違っている。正しくは「絶対にしたくないからじゃなくて?」
この会話のシーンはトム・クルーズのお得意のシーンだ。
つまり「自分より頭の回転の速い女に突っ込まれて頭がついていけなくてしどろもどろになるシーン」
アリスは次々にビルの発言の弱い点を突いてきます。ラリッてるくせに鋭い。笑える。
ビルは答えが出なくなる。
ここでもビルは行き詰まっているところを電話で助けられてその場から逃れる。
夜のニュヨークを歩いていて娼婦に声をかけられる。
家に入るけど、何がしたいのかをビルは言えない。
ここでもどうするか決心できないところをアリスからの電話で助かる。
レインボー貸衣装店に行って医者のIDを見せ始める。
このあとあちこちでこれを使う。ビルのアイデンティティはこれしかない。
スーパー上流の人間はいろんな顔をもっているのに、ビルはひとつだけ。
それも労働者のID。(スーパー上流にとって医者は召使)
このように、
この映画はビルを面白みの無い、自己解決能力の無い、凡庸な人間として描きます。
それが冒険をおかしてクラスの違うスーパー上流の世界をのぞこうとして痛い目にあう。
登場する女はみんなお金で買われる女ばかり。
レンイボー貸衣装店の娘まで商品になってしまう。
この子、リーリー・ソビエスキーなんだね。当時15歳。ものすごい美しさ。
この映画はストーリーを描いている映画ではない。
ひとつひとつのエピソードがそれぞれの意味を持ち、ジグゾーパズルのように
小片が全部集まってひとつの絵を構成するという映画だ。
だから最後のシーンは結論ではない。
結論は・・・字数オーバーになるので書かない。
私はマンディはスーパー上流に殺されたと思う。
ベッドの仮面はスーパー上流が警告のために置いたのだと思う。
面白い映画だ。これからまた見よう。