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オリジナリティを尊重し、本作品は無修正版です。 喧嘩、盗み、歌、タップ・ダンス、暴力。山高帽とエドワード7世風のファッションに身を包んだ、反逆児アレックス(マルコム・マクドウェル)には、独特な楽しみ方がある。それは他人の悲劇を楽しむ方法である。アンソニー・バージェスの小説を元に、異常なほど残忍なアレックスから洗脳され模範市民のアレックスへ、そして再び残忍な性格に戻っていく彼を、スタンリー・キューブリックが近未来バージョンの映画に仕上げた。忘れられないイメージ、飛び上がらせる旋律、アレックスとその仲間の魅惑的な言葉の数ー。キューブリックは世にもショッキングな物語を映像化した。当時、議論の的になったこの作品は、ニューヨーク映画批評家協会賞の最優秀作品賞と監督賞を受賞し、アカデミーでは作品賞を含む4部門にノミネートされた。現在でも『時計じかけのオレンジ』のその芸術的な衝撃と誘惑は観る人ーを圧倒する。(掲載のジャケット写真はDVDのものです)
25年前、映画の恐ろしさを教えてくれた作品です。
真っ赤なエンドロールに鳴り響くジーン・ケリーの歌声に、席を立てなかったことをまざまざと思い出します。
『雨に唄えば』は、どしゃぶりの中で踊りながら、恋の喜びを歌う歌でした。つまり、希望に満ち溢れた、生への賛歌であったのです。
その歌をレイプ・シーン、そしてアレックスが本来の、セックス&バイオレンスにしか興味のない自分を取り戻したラストに使うキューブリックの悪意、というか毒に声もでないほどショックを受けました。
撮影中、何か歌えといわれたマルコム・マクダウェルが即興で歌ったことから、この歌が採用されたと何かで読んだことがありますが、事実なら、偶然が傑作を作り上げたとも言えます。
ハヤカワ文庫から出ていた原作は数ページで挫折したので比較できませんが、この作品から、未来の管理社会への警告、体制批判、深刻化する少年犯罪など、何がしかのメッセージ性をすくいとろうとすることは、きっと善意に過ぎます。
キューブリックはすべてを笑い飛ばしたのです。モラル、ルール、権威、愛情、芸術、人間を。
そんなものより、一瞬の快感がすべてに勝るじゃないか。一瞬の不快感がすべてに勝るじゃないか。
この悪魔的なコメディの、素晴らしい美術、音楽(サントラもよいです)、映像などは、一瞬の快と不快を表現するため、あるいは快と不快を入れ替えるために、奉仕させられているのです。
吐き気がするほど素晴らしい作品です。100点。
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何、言ってるかわかる人は、この映画、知ってますね!
俗語の“ナッドサット”言葉で、[ スパチカ:爆睡、眠る ] の意味です。この映画の字幕で訳せない言葉は、ナッドサットそのままカタカナ表記でした。
(アレックス言葉で話そう!サイトまである)
この映画を最初に観たのは遠い昔、美術の勉強していた学生の頃。「えっ、まだ観てない?」のまわりの雰囲気。当時、駅地下にあったリバイバル館で学割350円で友人と観た。
とてもじゃないが、前知識無しの1発で理解できる映画じゃなかった。友人と「イソップ童話で良いのかもしれない」程度の感想。
それが、今は、何かきっかけあると観る映画。
タイトルの解釈だけでも、その人の人生観が出てくる、奥深き映画。
で、今回、私は、ティム・バートン監督『バットマン』のジョーカー役ジャック・ニコルソンからの連想で観てしまった。
今回、何年か振りに観て思ったことは、罪深き映画であること。
確かに原作の近未来SFの予言が当たっているだけに怖い。
ベートーベンの第九やミュージカル名曲「雨に唄えば」が見事に映像と一体となる。
観ている私たちも、気がつくと暴力場面に陶酔しながら共犯者にされてしまう。
いつ観ても色褪せない美術。異空間世界のファッションに装飾品、インテリア小物。確かにカッコイイ。カッコイイから罪の意識が薄れる。
この感覚は、まさにTVゲーム世代の子供たちが、現実と映像のバーチャルな世界の区別がつかなくなり、犯罪に走る原因のひとつと全く同じ。
これも有名な逸話…。
アンソニー・バージェスの原作は21章からなるが、キューブリックは20章で終わらせている。最終章(=21章)、アレックスは18歳。結婚した仲間に再会し、「もう、あんな事をする若さじゃない」で終わっています。
若気の至りを悔いて自ら社会の一員として更正することが原作者がこだわった意図。
この意図をあえて無視した描き方が罪深い。
予知していたのなら、止める方法をわかりやすく描くことはできなかったのか?
罪深き作家性を感じてしまった。
スタンリー・キューブリックの作家性は、題材を様々なジャンル(SF、ホラー、文芸作品)に変えても、人間が心の奥底に持っていることを巧みに映像のなかに表現できる監督。その表現の根底は性悪説にあると思える底意地の悪さ。もっと意地が悪いのはテーマを直接語らない。この作家性によって、ラスト、アレックスが悔いて、更正するなんてことは描けない。観客に、理性を失った本能を見せ付けることで不快感を与える。
なんで不快に思った?どこが嫌だった?そこから、私が本当に言いたいことを感じ取れ。
それがキューブリックの作家性。
だから、私は、「映画は世の中に対する抑止力も持ち合わせた力強い媒体である」と信じてる。
きっと、世の中が、この映画を追い越した時、また違う観え方になると思う…。
キューブリックは、今頃、天国か地獄で、こんなレビューを書く私たちをアレックスと同じく狂気じみた瞳でニヤリと笑っているのかもしれない…。
私がこの映画を何度か観た中でのその他の逸話知識
(見聞きしたもの含めて)…
その1
アレックスはイエス・キリスト。
原作者バージェス自身が1986年11月に記載した失なわれた第21章の意味について書かれた一文と、この映画の中でも「踊るキリスト像」などで象徴的に表現されていることからわかる。
その2
あのシーンの”雨に唄えば”。
リハーサル上でマクドウェルがたまたま知っていた歌のアドリブが”雨に唄えば”。ですが、本採用に当たってキューブリックは、かなり悩んだ上での計算しつくした採用曲。
後半、アレックスが心安らかな時の鼻歌としても口ずさんでいるシーンが出てきます。ここはストーリー上、注目!
その3
タイトル。
もう、字数オーバーで書けない。(笑)
一番最初に見た時にはなんと衝撃的な映画だと感じ、キューブリックって言う監督は頭がちょっと「イっちゃってる」と思った。
その後何度となくこの映画を見ているんだけど最近ふと怖くなった。話が全然近未来のことじゃないよコレ。実際に少年が浮浪者を殺害という事件もおきてるし、今じゃ日本でも良く似た状況じゃない。
そう考えるとキューブリックは頭がイってたんじゃ無く、視線が未来に行ってたんですね。
アレックスのような若者が実在する現在、作品としての衝撃度は減ったが、逆に社会に適合出来ない人間に対して洗脳やロボトミーを行うという刑罰(治療?)はこれから現実的にありそうで怖い。
「雨に唄えば」の使い方がすごいよね。でもあれはマルコム・マクダウェルがアドリブで歌ったものが採用されたそうだ。すごく印象的なシーンなのでとても興味深いエピソードだ。
観ると生理的な嫌悪感を覚える人もいるかもしれないが、間違いなく多くの映像作家達が影響を受けた作品なので是非一度ご賞味あれ。そこには鬼才の名にふさわしいキューブリックワールドがあなたを待ち構えています。