冬の光 / グンナル・ビョーンストランド
冬の光
/イングマル・ベルイマン
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(5)
解説・ストーリー
スウェーデンの漁村で牧師をしているトマスは、自分の信仰に自信が持てなくなっていた。そんなある日、彼のもとに神経衰弱の夫を持つ婦人が現われる。彼女は夫の悩みを取り去ってくれと訴える。だが、己の愛人との関係に疲れたトマスは、ありきたりの言葉でしか答えられない。やがて、その夫が自殺したという知らせが届く……。
スウェーデンの漁村で牧師をしているトマスは、自分の信仰に自信が持てなくなっていた。そんなある日、彼のもとに神経衰弱の夫を持つ婦人が現われる。彼女は夫の悩みを取り去ってくれと訴える。だが、己の愛人との関係に疲れたトマスは、ありきたりの言葉でしか答えられない。やがて、その夫が自殺したという知らせが届く……。
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「冬の光」 の解説・あらすじ・ストーリー
解説・ストーリー
スウェーデンの漁村で牧師をしているトマスは、自分の信仰に自信が持てなくなっていた。そんなある日、彼のもとに神経衰弱の夫を持つ婦人が現われる。彼女は夫の悩みを取り去ってくれと訴える。だが、己の愛人との関係に疲れたトマスは、ありきたりの言葉でしか答えられない。やがて、その夫が自殺したという知らせが届く……。
「冬の光」 の作品情報
「冬の光」 のキャスト・出演者/監督・スタッフ
冬の光 ≪HDリマスター版≫の詳細
収録時間: |
字幕: |
音声: |
86分 |
日本語 |
1:ドルビーデジタル/モノラル/スウェーデン語
|
レイティング: |
記番: |
レンタル開始日: |
|
KIBR1652 |
2015年01月07日
|
在庫枚数 |
1位登録者: |
2位登録者: |
13枚
|
0人
|
1人
|
冬の光 ≪HDリマスター版≫の詳細
収録時間: |
字幕: |
音声: |
86分 |
日本語 |
1:ドルビーデジタル/モノラル/スウェーデン語
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レイティング: |
記番: |
レンタル開始日: |
|
KIBR1652 |
2015年01月07日
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在庫枚数 |
1位登録者: |
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ユーザーレビュー:5件
私だけを愛してくれる神
投稿日:2015/02/12
レビュアー:まみもぉ
冒頭から、具合が悪いせいだけではないだろうと想像できる辛そうな司祭。
原因は亡き妻らしい。妻の残したラブレターの紹介シーンはかなりおそろしい。
そんな司祭のもとに救いを求め悩める夫ヨーナスを連れてきた妻。
ヨーナスへの司祭のお話しに驚いた。
悩みを聞くどころか自身の告解のよう。
逃げるように帰った彼のあとひとり呆然とたたずむ司祭のうしろの窓から、
日差しが冬の光が差し込んできます。神々しいシーンです。
姿のない神の気配のような光。振り向く司祭を光る気配のその神が抱き包んでいるようでした。
司祭の黒い服が光を吸収してやわらかく膨らんでいって昇天するかと思いました。
でもそこから容赦ない現実へ。あの話しの後、想像通りなヨーナスの最期。
横たわる彼のそばに立ちすくむ司祭。処理をする警官達。
その間、ずっと大量の川の水の激昂音が轟いています。鐘楼の音のごとく。
なんと言うに言えず、言葉を盗られました。
こんな重いシーンだけなら、観る身がもたなかったでしょうが、合間あいまに緩衝材がありました。
頬や眉間がゆるむ緩衝材。司祭とマッタです。ふたりになるとひとつの気泡になってしまう。
このふたりの関係はなんとも......おかしい。
ドS男とドM女。そこまで言っても言われてもしてもされてもプチプチなふたり。
神の気配に人間らしさを感じました。
神を含め見捨てられた人々。監督自身もそうなのでしょうか。
愛が光になった瞬時、気配の実態を見ることができるのかもしれないけど、
それは希望にならない。まやかしのように思えます。
軽やかに絶望的にしてくれたベルイマン監督作品でした。
このレビューは気に入りましたか?
8人の会員が気に入ったと投稿しています
ほどほどが一番です。何事も。
※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
レビューを表示する
このトーマスという主人公、非常に人間的(マイナスの意味で)です。
なので人の弱さとか愚かさにおいては 共感を呼べる人物かもしれません。ただ私は共感もできなければ崇高さも神聖さも感じない、「それ、牧師以前にオトナとしてどうなの??」的な言動が気になって仕方ありませんでした。
●ヨーナスの遺体発見後の行動。
マッタを家に送り届けたまでは良い。その後すぐにヨーナスの妻に彼の死を伝えに行くかと思いきや、彼女の家に立ち寄り頭痛薬と咳止めを飲む。あれ、こういう時は多少気分が悪くても急いで知らせに行かない?曲がりなりにも自分の教会の信者であり、自分が彼が最後に会ったであろう人物ですよ。それなのに自分を優先。そして ヨーナスの力になれなかった事を悔やむ事もなければ 彼の死を悼む事もせず、マッタと痴話喧嘩を始める始末。彼女に対しても随分とキツい言葉を投げつけてました。
●「みんな私に無関心だ」というセリフ。
では聞きますが、彼は信者に対してきちんと関心を持っていたでしょうか?いないでしょう。ヨーナスにいつから具合が悪いのが聞いていましたから。あんなに少ない信者の1人なのに 聞かないと分からないんですから。日頃から気にかけていればちょっと位気づくはずです。それができないほど 自分の悩みで手一杯だったという事でしょうか?でもそれを一般社会の“仕事”として置き換えてみると、あまり通用しないと思いますけどね……。
●トーマスの渋顔。
咳は仕方ないにしても、終始あんな渋顔をされていたのでは 周りが気を遣います。トーマスのボス(=キリスト)、「世の光、地の塩となりなさい」と言ってませんでしたっけ?それなのにあんな苦虫を噛み潰したような顔、せめて人前では慎むべきでしょう。以前少しだけ修道院で過ごした事ありますけど、食事を取る量が少ないだけでも「体調が悪いのかとみんなが心配するから」と、なるべく通常量は食べるように言われました。食事でこれですからあんな渋顔した日にゃ院長の呼び出し確実です(ちなみに私はクリスチャンではないです。)
聖職者であっても、神の存在や自分の信仰を疑う事は珍しくないと聞きます。そしてそれは全然悪い事ではないでしょう。
完璧な信仰などないし 完璧な牧者などいない。トーマスのあの渋顔はそれを求めるあまり、そうあろうとするあまり、他者との関わりを脆くし 自身を見つめる目も狭めてしまった結果なのかもしれません。
求めるのも結構、悩むのも結構ですが、求め過ぎ、悩み過ぎは良くないですね。
ほどほどが一番です。何事も。
このレビューは気に入りましたか?
3人の会員が気に入ったと投稿しています
疑い深い“トマス”の名のとおりに...
沈黙する神に疑いをもつ不信心な牧師と、その牧師を愛する女のそれぞれの苦悩を描いた作品。
これは実際に有りうる職業牧師の現実を生々しく描いており、製作された1962年当時はなにかと物議を醸したのではないか。
聖職者はじめ教会リーダーの秘め事はそうとう昔からあったと思われるが、それが公になることはほとんどなかったはずで、その点ベルイマン監督はキリスト教団体などの大きな反発を買わないスタイルで控えめにそれを映像化している。
ラストの方、信者の一人でトマス牧師の執事のような振る舞いをするアルゴットの相談話が秀逸だ。
彼は身体が少し不自由なようで、その痛みを緩和するためにと牧師から読書を勧められたのだった。
読書に聖書を選んだアルゴットはキリスト受難のエピソードを読み、そこにある疑問をもった。それは、キリストの受けた苦しみははたして肉体の苦しみだけだったのか?という疑問だった。彼は、“ゲッセマネ”で自身の運命を前に祈るイエスをよそに眠りほうける弟子たちや、ローマの官憲たちが現れるやイエスを見捨てて逃げ去ってしまった弟子たちの様子から、十字架上のイエスの苦しみが肉体の苦しみよりも、むしろ弟子たちに理解されず孤独に陥ったことの虚しさと、最後のその場に至っても“沈黙する神”に対して疑いをもった自身に苦しんだのではないかとの自説を述べるのである。
遠藤周作さんの『イエスの生涯』という本を昔読んだことがあり、そこに書かれている遠藤さんのイエス観がこれと同じだったと記憶しているが、ここに映画の主題である「信仰の本質」の問題が提示されている。キリストにさえ沈黙していた神に、その後の数多の信者が疑いをもってしまうのは当然だと思う。実は、神が“いる”“いない”は問題ではなく、自身がそれを信じているかどうかが問題である。牧師を愛するマルタは生の哲学を訴えており、トマス牧師とマルタの相反はキリスト教と実存主義の対立とも受け取れるのだが、そもそもが次元の違う価値観なのであり、その融合を図ることは叶わない。トマス牧師は、その後自殺を遂げることとなる相談者ヨナスに対して、自身の真実(本音)を吐露し「人生は無意味」とまで言い放つのだが、無意味なのは彼の“苦悩”なのだった。
このレビューは気に入りましたか?
2人の会員が気に入ったと投稿しています
自己問答と撮影が秀逸。この映画の門は、宗教ではない。
スウェーデン映画。
白黒の冒頭、鐘がなる。(この間、簡潔に30秒ほど、文字だけで、題名、監督名、役者名、カメラマン名などが白抜きで紹介される。)
司祭がいきなり、新約聖書の言葉を述べる。
「キリストは裏切られる夜 パンを取り 弟子たちに与えて言った
“食べよ これはあなた方に 与える私の肉体である”
私の記念にこれを行え”
次に主は杯をとって 弟子たちに与えて言った
“飲みなさい これは私の契約の血である
人々の罪の償いに 流される血である
私の記念として行え“
主なる神キリストに祈りをささげよう
天にまします我らの父よ
み国の来たらんことを み旨を地に行わせたまえ
我らに日々の糧を与え 罪を許して試練より解放し
我らを悪より救いたまえ
主は天国で永遠に 力と栄光の座に輝く
アーメン」
私は、キリスト教者ではないが、この、新約聖書のもっとも有名な「最後の晩餐」の場面を、映画で何度みただろうか。
宗教とは無縁で生きてきた50余年だったが、この場面の言葉には、心をひかれるものがある。そして、違和感も感じてきた。
西洋と日本のちがい。西洋と東洋ではなく、日本とのちがい。
ベルイマンの映画は、キリスト教、カトリックの信仰がなくても、楽しめると敢えて言おう。知識はあったほうがよいだろうか……。あったほうが、たぶん面白く読めるだろう。
ここに描かれているスウェーデンの村では、信仰や教会は、日常のそのものだ。
神輿の祭り、地蔵さんのお世話、初詣などで、特定の宗教を信仰していない自分も、神や仏の前で額ずく場面がある。
年に数度だが、近親者が病気になると、祈ることも度々になるだろう。
そうしたことが日常化、システム化されている小さな社会が、この村であろう。
と、考えれば、この映画に入って行きやすいと思う。
司祭(グンナール・ビョルンストランド)は、妻帯が許されている。
妻亡きあと、教会内で、いまの恋人(イングリット・チューリン)とキッスもできるのだ。
彼は、何を悩んでいるのだろうか?
宗教者として、司祭として、「確たる信仰」をもって、教区を導かなければならないのだが、自信をなくしているのだ。体も病んでいる。
彼「トマス」の前に、別の新しい女性が救いを求めてくる。
彼女は、夫を助けてほしいという。夫は、深い悩みを抱えていた。
「トマス」は、その場しのぎのような言葉しか、その男、男の妻に言うことができない。
やがて、夫は自殺する。
その夫(マックス・フォン・シドー)の深い悩みは、「トマス」にもつながってくる。
「冬の光」という邦題はとてもよいが、映画の映像も、渋く緊密だ。
教会内部に差し込む、細い光をとらえた撮影は、秀逸だ。
初めてカメラが雪の屋外(森)に出ると、車が映り、夫の遺骸が現れる。
川の激しい水流の音。
神を信じ続けた司祭には、信仰を捨てることは、世界を捨てることと同様、不可能に近い。
村人は、緩やかな信仰、というよりも宗教習慣で、日常が安穏でれば、疑いをもつ者はいない。
司祭は、ベルイマン監督の分身なのだろう。徹頭徹尾、真面目な映画であるが、信仰を捨てた実存哲学者の自己問答のような映画である。
「問う」ということは、疑いを自己問答し、聖書のような明らかな詩にすることだろうと思う。
このレビューは気に入りましたか?
2人の会員が気に入ったと投稿しています
信仰とは
※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
レビューを表示する
牧師さんが信仰に対して懐疑的になり、その上鬱病っぽく(と言うか鬱病)になってしまうお話。
殆どの日本人はそうかもしれないが、僕はキリスト教に馴染みはないし、信仰心も全くと言って良いほど持ち合わせていない。しかし、宗教的なものに拘らず、それこそ好きな映画や好きな人に抱いている愛情や執着心を無理矢理一種の「信仰」と捉えれば、この手の映画や主人公の心情などを少しは理解できるのかな…と思いながら観ていた。とは言いつつ、100%楽しむためにキリスト教に関する知識を身につけたいな?泣
このレビューは気に入りましたか?
1人の会員が気に入ったと投稿しています
ユーザーレビュー
私だけを愛してくれる神
投稿日
2015/02/12
レビュアー
まみもぉ
冒頭から、具合が悪いせいだけではないだろうと想像できる辛そうな司祭。
原因は亡き妻らしい。妻の残したラブレターの紹介シーンはかなりおそろしい。
そんな司祭のもとに救いを求め悩める夫ヨーナスを連れてきた妻。
ヨーナスへの司祭のお話しに驚いた。
悩みを聞くどころか自身の告解のよう。
逃げるように帰った彼のあとひとり呆然とたたずむ司祭のうしろの窓から、
日差しが冬の光が差し込んできます。神々しいシーンです。
姿のない神の気配のような光。振り向く司祭を光る気配のその神が抱き包んでいるようでした。
司祭の黒い服が光を吸収してやわらかく膨らんでいって昇天するかと思いました。
でもそこから容赦ない現実へ。あの話しの後、想像通りなヨーナスの最期。
横たわる彼のそばに立ちすくむ司祭。処理をする警官達。
その間、ずっと大量の川の水の激昂音が轟いています。鐘楼の音のごとく。
なんと言うに言えず、言葉を盗られました。
こんな重いシーンだけなら、観る身がもたなかったでしょうが、合間あいまに緩衝材がありました。
頬や眉間がゆるむ緩衝材。司祭とマッタです。ふたりになるとひとつの気泡になってしまう。
このふたりの関係はなんとも......おかしい。
ドS男とドM女。そこまで言っても言われてもしてもされてもプチプチなふたり。
神の気配に人間らしさを感じました。
神を含め見捨てられた人々。監督自身もそうなのでしょうか。
愛が光になった瞬時、気配の実態を見ることができるのかもしれないけど、
それは希望にならない。まやかしのように思えます。
軽やかに絶望的にしてくれたベルイマン監督作品でした。
ほどほどが一番です。何事も。
投稿日
2015/03/09
レビュアー
越前
※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
レビューを表示する
このトーマスという主人公、非常に人間的(マイナスの意味で)です。
なので人の弱さとか愚かさにおいては 共感を呼べる人物かもしれません。ただ私は共感もできなければ崇高さも神聖さも感じない、「それ、牧師以前にオトナとしてどうなの??」的な言動が気になって仕方ありませんでした。
●ヨーナスの遺体発見後の行動。
マッタを家に送り届けたまでは良い。その後すぐにヨーナスの妻に彼の死を伝えに行くかと思いきや、彼女の家に立ち寄り頭痛薬と咳止めを飲む。あれ、こういう時は多少気分が悪くても急いで知らせに行かない?曲がりなりにも自分の教会の信者であり、自分が彼が最後に会ったであろう人物ですよ。それなのに自分を優先。そして ヨーナスの力になれなかった事を悔やむ事もなければ 彼の死を悼む事もせず、マッタと痴話喧嘩を始める始末。彼女に対しても随分とキツい言葉を投げつけてました。
●「みんな私に無関心だ」というセリフ。
では聞きますが、彼は信者に対してきちんと関心を持っていたでしょうか?いないでしょう。ヨーナスにいつから具合が悪いのが聞いていましたから。あんなに少ない信者の1人なのに 聞かないと分からないんですから。日頃から気にかけていればちょっと位気づくはずです。それができないほど 自分の悩みで手一杯だったという事でしょうか?でもそれを一般社会の“仕事”として置き換えてみると、あまり通用しないと思いますけどね……。
●トーマスの渋顔。
咳は仕方ないにしても、終始あんな渋顔をされていたのでは 周りが気を遣います。トーマスのボス(=キリスト)、「世の光、地の塩となりなさい」と言ってませんでしたっけ?それなのにあんな苦虫を噛み潰したような顔、せめて人前では慎むべきでしょう。以前少しだけ修道院で過ごした事ありますけど、食事を取る量が少ないだけでも「体調が悪いのかとみんなが心配するから」と、なるべく通常量は食べるように言われました。食事でこれですからあんな渋顔した日にゃ院長の呼び出し確実です(ちなみに私はクリスチャンではないです。)
聖職者であっても、神の存在や自分の信仰を疑う事は珍しくないと聞きます。そしてそれは全然悪い事ではないでしょう。
完璧な信仰などないし 完璧な牧者などいない。トーマスのあの渋顔はそれを求めるあまり、そうあろうとするあまり、他者との関わりを脆くし 自身を見つめる目も狭めてしまった結果なのかもしれません。
求めるのも結構、悩むのも結構ですが、求め過ぎ、悩み過ぎは良くないですね。
ほどほどが一番です。何事も。
疑い深い“トマス”の名のとおりに...
投稿日
2015/04/07
レビュアー
哲郎
沈黙する神に疑いをもつ不信心な牧師と、その牧師を愛する女のそれぞれの苦悩を描いた作品。
これは実際に有りうる職業牧師の現実を生々しく描いており、製作された1962年当時はなにかと物議を醸したのではないか。
聖職者はじめ教会リーダーの秘め事はそうとう昔からあったと思われるが、それが公になることはほとんどなかったはずで、その点ベルイマン監督はキリスト教団体などの大きな反発を買わないスタイルで控えめにそれを映像化している。
ラストの方、信者の一人でトマス牧師の執事のような振る舞いをするアルゴットの相談話が秀逸だ。
彼は身体が少し不自由なようで、その痛みを緩和するためにと牧師から読書を勧められたのだった。
読書に聖書を選んだアルゴットはキリスト受難のエピソードを読み、そこにある疑問をもった。それは、キリストの受けた苦しみははたして肉体の苦しみだけだったのか?という疑問だった。彼は、“ゲッセマネ”で自身の運命を前に祈るイエスをよそに眠りほうける弟子たちや、ローマの官憲たちが現れるやイエスを見捨てて逃げ去ってしまった弟子たちの様子から、十字架上のイエスの苦しみが肉体の苦しみよりも、むしろ弟子たちに理解されず孤独に陥ったことの虚しさと、最後のその場に至っても“沈黙する神”に対して疑いをもった自身に苦しんだのではないかとの自説を述べるのである。
遠藤周作さんの『イエスの生涯』という本を昔読んだことがあり、そこに書かれている遠藤さんのイエス観がこれと同じだったと記憶しているが、ここに映画の主題である「信仰の本質」の問題が提示されている。キリストにさえ沈黙していた神に、その後の数多の信者が疑いをもってしまうのは当然だと思う。実は、神が“いる”“いない”は問題ではなく、自身がそれを信じているかどうかが問題である。牧師を愛するマルタは生の哲学を訴えており、トマス牧師とマルタの相反はキリスト教と実存主義の対立とも受け取れるのだが、そもそもが次元の違う価値観なのであり、その融合を図ることは叶わない。トマス牧師は、その後自殺を遂げることとなる相談者ヨナスに対して、自身の真実(本音)を吐露し「人生は無意味」とまで言い放つのだが、無意味なのは彼の“苦悩”なのだった。
自己問答と撮影が秀逸。この映画の門は、宗教ではない。
投稿日
2014/11/29
レビュアー
ちゅく
スウェーデン映画。
白黒の冒頭、鐘がなる。(この間、簡潔に30秒ほど、文字だけで、題名、監督名、役者名、カメラマン名などが白抜きで紹介される。)
司祭がいきなり、新約聖書の言葉を述べる。
「キリストは裏切られる夜 パンを取り 弟子たちに与えて言った
“食べよ これはあなた方に 与える私の肉体である”
私の記念にこれを行え”
次に主は杯をとって 弟子たちに与えて言った
“飲みなさい これは私の契約の血である
人々の罪の償いに 流される血である
私の記念として行え“
主なる神キリストに祈りをささげよう
天にまします我らの父よ
み国の来たらんことを み旨を地に行わせたまえ
我らに日々の糧を与え 罪を許して試練より解放し
我らを悪より救いたまえ
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アーメン」
私は、キリスト教者ではないが、この、新約聖書のもっとも有名な「最後の晩餐」の場面を、映画で何度みただろうか。
宗教とは無縁で生きてきた50余年だったが、この場面の言葉には、心をひかれるものがある。そして、違和感も感じてきた。
西洋と日本のちがい。西洋と東洋ではなく、日本とのちがい。
ベルイマンの映画は、キリスト教、カトリックの信仰がなくても、楽しめると敢えて言おう。知識はあったほうがよいだろうか……。あったほうが、たぶん面白く読めるだろう。
ここに描かれているスウェーデンの村では、信仰や教会は、日常のそのものだ。
神輿の祭り、地蔵さんのお世話、初詣などで、特定の宗教を信仰していない自分も、神や仏の前で額ずく場面がある。
年に数度だが、近親者が病気になると、祈ることも度々になるだろう。
そうしたことが日常化、システム化されている小さな社会が、この村であろう。
と、考えれば、この映画に入って行きやすいと思う。
司祭(グンナール・ビョルンストランド)は、妻帯が許されている。
妻亡きあと、教会内で、いまの恋人(イングリット・チューリン)とキッスもできるのだ。
彼は、何を悩んでいるのだろうか?
宗教者として、司祭として、「確たる信仰」をもって、教区を導かなければならないのだが、自信をなくしているのだ。体も病んでいる。
彼「トマス」の前に、別の新しい女性が救いを求めてくる。
彼女は、夫を助けてほしいという。夫は、深い悩みを抱えていた。
「トマス」は、その場しのぎのような言葉しか、その男、男の妻に言うことができない。
やがて、夫は自殺する。
その夫(マックス・フォン・シドー)の深い悩みは、「トマス」にもつながってくる。
「冬の光」という邦題はとてもよいが、映画の映像も、渋く緊密だ。
教会内部に差し込む、細い光をとらえた撮影は、秀逸だ。
初めてカメラが雪の屋外(森)に出ると、車が映り、夫の遺骸が現れる。
川の激しい水流の音。
神を信じ続けた司祭には、信仰を捨てることは、世界を捨てることと同様、不可能に近い。
村人は、緩やかな信仰、というよりも宗教習慣で、日常が安穏でれば、疑いをもつ者はいない。
司祭は、ベルイマン監督の分身なのだろう。徹頭徹尾、真面目な映画であるが、信仰を捨てた実存哲学者の自己問答のような映画である。
「問う」ということは、疑いを自己問答し、聖書のような明らかな詩にすることだろうと思う。
信仰とは
投稿日
2023/02/24
レビュアー
トンネル掘り
※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
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牧師さんが信仰に対して懐疑的になり、その上鬱病っぽく(と言うか鬱病)になってしまうお話。
殆どの日本人はそうかもしれないが、僕はキリスト教に馴染みはないし、信仰心も全くと言って良いほど持ち合わせていない。しかし、宗教的なものに拘らず、それこそ好きな映画や好きな人に抱いている愛情や執着心を無理矢理一種の「信仰」と捉えれば、この手の映画や主人公の心情などを少しは理解できるのかな…と思いながら観ていた。とは言いつつ、100%楽しむためにキリスト教に関する知識を身につけたいな?泣
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