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「男たちの大和/YAMATO」の角川春樹が製作総指揮を務め、モンゴル建国の英雄チンギス・ハーンの生涯を壮大なスケールで映画化した歴史大河ロマン。主演は反町隆史、共演に菊川怜。監督は「Wの悲劇」の澤井信一郎。部族間の激しい闘争が繰り返されていた12世紀末のモンゴル。モンゴル部族の長の息子として生まれ、彼らの始祖“蒼き狼”の生まれ変わりと言われ大切に育てられたテムジン(のちのチンギス・ハーン)。しかしテムジンが14歳の時、父親を敵対する部族に殺されると、彼は父の部下たちの非情な裏切りに遭い部族から見捨てられてしまうのだった。
「男たちの大和/YAMATO」の角川春樹が製作総指揮を務め、モンゴル建国の英雄チンギス・ハーンの生涯を壮大なスケールで映画化した歴史大河ロマン。主演は反町隆史、共演に菊川怜。監督は「Wの悲劇」の澤井信一郎。部族間の激しい闘争が繰り返されていた12世紀末のモンゴル。モンゴル部族の長の息子として生まれ、彼らの始祖“蒼き狼”の生まれ変わりと言われ大切に育てられたテムジン(のちのチンギス・ハーン)。しかしテムジンが14歳の時、父親を敵対する部族に殺されると、彼は父の部下たちの非情な裏切りに遭い部族から見捨てられてしまうのだった。
製作年: |
2006年 |
---|---|
製作国: |
日本/モンゴル |
収録時間: | 字幕: | 音声: |
---|---|---|
136分 | 1:ドルビーデジタル//日本語 |
|
レイティング: | 記番: | レンタル開始日: |
DB9115 | 2007年08月08日 | |
在庫枚数 | 1位登録者: | 2位登録者: |
7枚 | 0人 | 0人 |
収録時間:
136分
字幕:
音声:
1:ドルビーデジタル//日本語
レイティング:
記番:
DB9115
レンタル開始日:
2007年08月08日
在庫枚数
7枚
1位登録者:
0人
2位登録者:
0人
DVD
収録時間: | 字幕: | 音声: |
---|---|---|
136分 | 1:ドルビーデジタル//日本語 |
|
レイティング: | 記番: | レンタル開始日: |
DB9115 | 2007年08月08日 | |
在庫枚数 | 1位登録者: | 2位登録者: |
7枚 | 0人 | 0人 |
収録時間:
136分
字幕:
音声:
1:ドルビーデジタル//日本語
レイティング:
記番:
DB9115
レンタル開始日:
2007年08月08日
在庫枚数
7枚
1位登録者:
0人
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モンゴル建国800年記念ということで、日本・モンゴル合作で作られたそうですが、主たる俳優人が日本人で、モンゴル民族の衣装をまとい、日本語でやりとりする??どうもリアリティが感じられませんでしたが・・・
モンゴル側は、エキストラと馬とロケ地を提供しただけだはないのでしょうか?
一昔前までは、お金がかかっていると聞くと、それだけで興味をそそられましたが、今は逆にそんなに使ったのにもったいない!という怒りに変わって逆効果ですよね。
しかし、本当の不満は描き方にあると思います。
チンギス・ハーンの生い立ちに、成育、起因する血の系譜がこの映画のテーマのように感じられます。
モンゴルが、遊牧民族同士が乱立していて、お互いに取ったり、取られたりの歴史を繰り返していた頃、金品や家畜土地、それと女性も・・・女性も戦利品として勝った部族がそのまま妻にしてしまうという事。
男性は、自分の父親が誰なのか懐疑的に生きていて、女性も愛する男性の子だと信じて産んだ子が、真実その子の父親なのか良く分からずに、遺伝子の織り成す愛憎を描いているはずなのに、
ハーンの子供が生まれる場面、果たして自分の子か否か?、妻を奪回した時の場面、妻を奪った敵将・・・本当は自分の父かもしれないのに・・・を殺す場面。今ひとつリアリティがなく、感情移入できませんでした。
人に対する洞察力が、ちょっと甘く肩透かしを食わされ、その原因は何処にあるのか?と犯人探しをすることになってしまいました。
最後の皆で「チンギス・ハーン」の大合唱は、めでたしめでたしという事なのでしょうが、見ている方としては、引いてしまいました。二代に渡る父と子の葛藤のドラマにしたなら、もっと感動したと思うのですが・・・
このレビューは気に入りましたか? 16人の会員が気に入ったと投稿しています
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壮大(になるはずだった)なドラマが、脚本のまずさで凡庸な作品に成ってしまっているような気がします。凡庸と言いつつ、パロさんやラヴァ様がおっしゃるように平均点以上の出来には成っているのですが、井上靖の「蒼き狼」を素材としているにしては(原作は森村誠一の「蒼き狼、地果て海尽きるまで」だそうですが)ストーリーが上滑りしているような気がして、せっかくの題材がもったいないなと思えてなりません。
ひらりさんがおっしゃるように「NHK大河ドラマの総集編映画」というようなスケールの大きさは感じるのですが、だったら、大河ドラマとして、全60回くらいでもっと一つ一つのエピソードを掘り下げた方が良かったのではないかと思ってしまうのです。
女房を略奪されたと思ったら、あっという間に取り返してるし、
「何故、テムジンのところにばかり、人が集まるのだ?」
とジャムカが腹心の部下である弟をテムジンの元に送り込んでから、殺されちゃうまで、1分とかかってないんじゃないでしょうか?
せっかく4ヶ月ものモンゴルロケを敢行して、壮大なスケールの映像が出来たのに、そこに流れるドラマに血肉が通っていないと思うのです。
ただの歴史スペクタクルにしたくはないのだという監督の思いはよくわかります。
ストーリーそのものは、自らの出自と、息子ジュチに対する複雑な思いと蹂躙される女性の立場を軸にしている室内劇であるならば、モンゴルロケの必然性はないし、CGで充分です。(現在のCGなら、それでも十分すぎる迫力が出せるはず)そこをあえてロケを敢行しただけのものがわかりません。(角川春樹氏が、即位式の指揮を執りたかっただけですか?)
略奪され、陵辱され続けた女達の葛藤、幼なじみジャムカとの離反から自らの手で殺さねばならなかった思い、モンゴル人の血と涙と叫び等々、本来なら表現されてしかるべきドラマが胸に響かないのは何故なんでしょう。
感情過多の演出にしないようにと言う沢井信一郎の意図は、よーくわかります。私も、「泣ける映画」が良い映画だとは思いません。
「泣ける映画」にして欲しいとは思いませんが、それぞれの人物の心の中に去来するであろう葛藤や、悔しさ、悲しみ、喜びも感じられず、クスリとも感動しなかったのです。
これは役者のせいでしょうか?反町隆史は大根ながら、頑張っていたとは思うのですが、まわりがいけません。まともに台詞もしゃべれない役者を使ってはいけません!
映画としての作りは、さすがと思えるものがありますし、悪くないとは思うのですが、モンゴル人と日本人のメンタリティの違いが、どうも私たちには受け入れづらかったのかもしれません。日本の時代劇でも戦争物でも、敵に捕らわれたときに
「生きて虜囚の辱めを受けることを潔しとしない」
日本人に対して(あえて、敵方の娘を捕虜的に側室にしたりもしますが)
「生きてさえいれば、いつか奪い返しに来てくれる。復讐する機会もかならずある」
と言うモンゴル人の考え方には違和感があり、それをすべて日本人のキャストで演じてしまっているのも違和感が残りました。
壮大なスケールの映像は、
「劇場で観た方が良かったんだろうな」
と思わせましたが、興行的にはどうも失敗作だったようです。
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またも戦争映画 この世は戦争映画だらけ しかしまさに西部劇 まるでジョン・フォードの「捜索者」のようなシネマ 略奪される女 女たちの掠奪史 この復讐の連鎖を 現代の時空に 9・11以降の戦争映画の問題として地続きにつないでいくと 解釈をあやまるかもしれない 牽強付会かもね 「早春物語」や「17歳の旅立ち」の映画作家 澤井信一郎はこれを テムジンの出自に関する 家庭悲劇のドラマにしぼって かっちりした構成をくずしません 基本的に室内劇なのです
うっかり構成をくずさないとか書いたのですが 部屋の外はくずれっぱなし モンゴルの地にカメラを据えれば それはもう角川春樹にだって 戦闘シーンだろうが景色だろうが撮れてしまうわけで ふてぶてしい澤井は 津川雅彦だったけの最低の儀式のシーンだかを 角川に平気で演出指揮させてしまうわけで このクソ暑いのに 角川が大自然の中で 葉っぱをやりながらいい気になっているとき クーラーの入ったホテルでやすんでいたのかもしれません そのぐらい神経が太くないと パロちゃんが言ってるみたいに アメリカの大監督たちでもボロボロにされてしまうのです こんなアホのような時代錯誤の歴史大作をまかされ それでも 脚本を土台に 大きな逸脱もせずに骨太な人間ドラマに 構成演出している 澤井信一郎はやはりすごいのであります
ラストはモンゴルの平滑空間から 万里の長城と言う境界線が かなたに浮上します それは視界に国家が現われる瞬間であり 国家が映画的に表象されてこの映画は幕を閉じるだろう
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1940年代後半のハリウッドにおいて主にB級映画を撮ることで監督の仲間入りした作家達が、アメリカ映画産業が凋落の一途を辿る50年代を経て、その流れがいよいよ決定的になった50年代末から60年代初頭にかけて遭遇したのは、ハリウッドが起死回生とばかりに矢継ぎ早に投入した数々の歴史大作だった。セシル・B・デミルの『十戒』[1956年]が嚆矢とされ『クレオパトラ』[1963年]を頂点とする作品群がそれで、他にも『ベン・ハー』 [1959年]、『アラビアのロレンス』 [1962年]、『偉大な生涯の物語』 [1965年]などをその例として上げることができるだろう。今ではその多くが文字通り歴史的な名作として映画史に残されているが、その製作の内幕は崩壊しつつあったハリウッドさながらの陰惨さに覆われていたらしい。セシル・B・デミルやデヴィッド・リーンと言った当時既に大家の位置にありこれ以前にも大作を物にしていた人物達はともかく、当時若手から中堅になりかかっていた作家達、すなわちキューブリックが『スパルタカス』[1960年]を、アルドリッチが『ソドムとゴモラ』[1954年]を自らのフィルモグラフィーから削除したがっていたことや、アンソニー・マンやニコラス・レイがこうした大作を製作した後に事実上映画作家としての生命を絶たれてしまったことからそのおおよそを窺い知ることができるし、ジョン・フォードやハワード・ホークスが大作主義に手を染めることがなかったこともその傍証として上げることができるだろう。要するに、これらは結局は徹頭徹尾プロデューサー達の作品だったのであり、それもフォードやホークスがザナックやゴールドウィンとの丁々発止の、でもどこか牧歌的な様相を残したやり取りによるものではなく、まさに生き残りを懸けた死闘とでも言うべきものが繰り広げられたのだろうと思う。
何故こんな話を持ち出したのかというと『蒼き狼』にハリウッド大作主義の幻影を感じてしまったからだ。マキノ雅弘に師事した経験を持つ最後の撮影所育ちの監督である澤井信一郎とアンソニー・マンやニコラス・レイなどの「50年代作家」を重ねるのはたやすいことだし、一時は獄中に繋がれた角川春樹は、『ローマ帝国の滅亡』(マン)や『北京の55日』(レイ)の製作者であり最後には莫大な借財を残したまま追われるようにしてハリウッドを去った稀代の山師サミュエル・ブロンストンとかなり似通ったアナロジーを成していると言えるだろう。だから、角川春樹が再び映画制作、それも莫大な予算を掛けた大作に着手し、その監督として市川崑や佐藤純彌、舛田利雄あるいは行定勲と言ったいかにも大仰な作品を手掛けそうな監督ではなく澤井信一郎に白羽の矢が立ったことを知り、上述のようなハリウッド大作主義の悪夢が思わず思い起こされてしまったのだ。
しかし、実際の作品を観る限りそれは杞憂に終わったと言えるだろう。澤井信一郎ならまさか『敦煌』やら『北の零年』のような作品を作る訳はないと思ってはいたが、物語や背景こそ大仰なものの、とてもしっかりした画面作りが成されていた。いや、物語もともすれば散漫になりかねない素材に対し軸をしっかり定めることによって、あまりブレのない物語を構成することに成功していたと思うし、恐らくは澤井信一郎が密かに憧れていただろう「西部劇」を堂々とやってのけているところも小気味良く、澤井氏が小品を手堅くまとめるだけの作家ではないことを再認識させられた。
とかくよからぬイメージがつきまとう人物である角川春樹にしても、テレビ局やら広告代理店やらと言ったそもそも映画なんてどうでも良いと思っている連中が単なるビジネスのためだけに幅を利かせているシンジケート方式が映画制作の主軸を完全に握ってしまった今日においては、その大言壮語さ故に結果的には貴重な存在になっており、むしろハリウッドの豪華な役員室にふんぞり返っているだけではなく、また経済観念だけから監督達に縛りを入れていた訳ではなく、彼らなりにそれ相当に映画を愛しておりそして同時に映画のことをとてもよく知っていたハリウッドの大プロデューサー達と重ね合わせることが可能なほどの頼もしさすら感じてしまうのだ。
少なくとも作品の出来という点に関して言えばとりあえず及第点を言える出来を残して再興した新角川映画だが、その真価が問われるのは次作以降になるだろう。思えば、大作主義でボロボロになってしまった50年代作家達にしても、初めての作品(マンの『エル・シド』、レイの『キング・オブ・キングス』)は課題点はあったものの何とかこなしていたはずだし、サミュエル・ブロンストンだって一時はハリウッドで最も発言力もある有名人になり得たのだ。次作は三村晴彦あたりを監督に据えて、『蒼き狼』がフロックでなかったことを証明して貰いたいと思う。
このレビューは気に入りましたか? 11人の会員が気に入ったと投稿しています
※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
この映画は見るつもりは全くなかったのですが、浅野忠信主演の話題作「モンゴル」を見たので、比べてみたくなって借りました。
他のみなさんがおっしゃってる通り、役者がみんな下手くそでせりふ棒読み状態なのが許せません。反町慟哭の芝居もくさい!(松山ケンイチだけはかわいいので許します。)
そして、舞台をモンゴルにはしていますが、内容はものすごく日本的な愛憎劇だと感じました。
略奪された妻のお腹の子供が、自分の子供ではないことを気にして、あーだこーだと室内で悩んでばかり。
「女はしょせん戦利品」と諦めきっているのか、女性たちにたくましさがありません。(女性兵士がひとり登場しましたが。)
その点「モンゴル」は、誰の子供だとか血がどうだとかそんなことはいちいち気にしない、女たちにも大陸の大草原で生きるたくましさを感じました。
しかし、合戦シーンやラストの即位シーンは、さすがに壮大(お金かけたんでしょうねえ。)ではありました。
テムジンの母(若村麻由美)のナレーションで、実に時系列通りに素直に進むので、とてもわかりやすいのがいいところです。「モンゴル」鑑賞前の予習としてはいいかもしれませんね。
このレビューは気に入りましたか? 6人の会員が気に入ったと投稿しています
入力内容に誤りがあります。
内容をご確認のうえ、修正いただきますようお願いいたします。
ユーザーレビュー:39件
投稿日
2007/08/09
レビュアー
ミルクチョコ※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
モンゴル建国800年記念ということで、日本・モンゴル合作で作られたそうですが、主たる俳優人が日本人で、モンゴル民族の衣装をまとい、日本語でやりとりする??どうもリアリティが感じられませんでしたが・・・
モンゴル側は、エキストラと馬とロケ地を提供しただけだはないのでしょうか?
一昔前までは、お金がかかっていると聞くと、それだけで興味をそそられましたが、今は逆にそんなに使ったのにもったいない!という怒りに変わって逆効果ですよね。
しかし、本当の不満は描き方にあると思います。
チンギス・ハーンの生い立ちに、成育、起因する血の系譜がこの映画のテーマのように感じられます。
モンゴルが、遊牧民族同士が乱立していて、お互いに取ったり、取られたりの歴史を繰り返していた頃、金品や家畜土地、それと女性も・・・女性も戦利品として勝った部族がそのまま妻にしてしまうという事。
男性は、自分の父親が誰なのか懐疑的に生きていて、女性も愛する男性の子だと信じて産んだ子が、真実その子の父親なのか良く分からずに、遺伝子の織り成す愛憎を描いているはずなのに、
ハーンの子供が生まれる場面、果たして自分の子か否か?、妻を奪回した時の場面、妻を奪った敵将・・・本当は自分の父かもしれないのに・・・を殺す場面。今ひとつリアリティがなく、感情移入できませんでした。
人に対する洞察力が、ちょっと甘く肩透かしを食わされ、その原因は何処にあるのか?と犯人探しをすることになってしまいました。
最後の皆で「チンギス・ハーン」の大合唱は、めでたしめでたしという事なのでしょうが、見ている方としては、引いてしまいました。二代に渡る父と子の葛藤のドラマにしたなら、もっと感動したと思うのですが・・・
投稿日
2007/08/20
レビュアー
こんちゃん※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
壮大(になるはずだった)なドラマが、脚本のまずさで凡庸な作品に成ってしまっているような気がします。凡庸と言いつつ、パロさんやラヴァ様がおっしゃるように平均点以上の出来には成っているのですが、井上靖の「蒼き狼」を素材としているにしては(原作は森村誠一の「蒼き狼、地果て海尽きるまで」だそうですが)ストーリーが上滑りしているような気がして、せっかくの題材がもったいないなと思えてなりません。
ひらりさんがおっしゃるように「NHK大河ドラマの総集編映画」というようなスケールの大きさは感じるのですが、だったら、大河ドラマとして、全60回くらいでもっと一つ一つのエピソードを掘り下げた方が良かったのではないかと思ってしまうのです。
女房を略奪されたと思ったら、あっという間に取り返してるし、
「何故、テムジンのところにばかり、人が集まるのだ?」
とジャムカが腹心の部下である弟をテムジンの元に送り込んでから、殺されちゃうまで、1分とかかってないんじゃないでしょうか?
せっかく4ヶ月ものモンゴルロケを敢行して、壮大なスケールの映像が出来たのに、そこに流れるドラマに血肉が通っていないと思うのです。
ただの歴史スペクタクルにしたくはないのだという監督の思いはよくわかります。
ストーリーそのものは、自らの出自と、息子ジュチに対する複雑な思いと蹂躙される女性の立場を軸にしている室内劇であるならば、モンゴルロケの必然性はないし、CGで充分です。(現在のCGなら、それでも十分すぎる迫力が出せるはず)そこをあえてロケを敢行しただけのものがわかりません。(角川春樹氏が、即位式の指揮を執りたかっただけですか?)
略奪され、陵辱され続けた女達の葛藤、幼なじみジャムカとの離反から自らの手で殺さねばならなかった思い、モンゴル人の血と涙と叫び等々、本来なら表現されてしかるべきドラマが胸に響かないのは何故なんでしょう。
感情過多の演出にしないようにと言う沢井信一郎の意図は、よーくわかります。私も、「泣ける映画」が良い映画だとは思いません。
「泣ける映画」にして欲しいとは思いませんが、それぞれの人物の心の中に去来するであろう葛藤や、悔しさ、悲しみ、喜びも感じられず、クスリとも感動しなかったのです。
これは役者のせいでしょうか?反町隆史は大根ながら、頑張っていたとは思うのですが、まわりがいけません。まともに台詞もしゃべれない役者を使ってはいけません!
映画としての作りは、さすがと思えるものがありますし、悪くないとは思うのですが、モンゴル人と日本人のメンタリティの違いが、どうも私たちには受け入れづらかったのかもしれません。日本の時代劇でも戦争物でも、敵に捕らわれたときに
「生きて虜囚の辱めを受けることを潔しとしない」
日本人に対して(あえて、敵方の娘を捕虜的に側室にしたりもしますが)
「生きてさえいれば、いつか奪い返しに来てくれる。復讐する機会もかならずある」
と言うモンゴル人の考え方には違和感があり、それをすべて日本人のキャストで演じてしまっているのも違和感が残りました。
壮大なスケールの映像は、
「劇場で観た方が良かったんだろうな」
と思わせましたが、興行的にはどうも失敗作だったようです。
投稿日
2007/08/10
レビュアー
裸足のラヴァース※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
またも戦争映画 この世は戦争映画だらけ しかしまさに西部劇 まるでジョン・フォードの「捜索者」のようなシネマ 略奪される女 女たちの掠奪史 この復讐の連鎖を 現代の時空に 9・11以降の戦争映画の問題として地続きにつないでいくと 解釈をあやまるかもしれない 牽強付会かもね 「早春物語」や「17歳の旅立ち」の映画作家 澤井信一郎はこれを テムジンの出自に関する 家庭悲劇のドラマにしぼって かっちりした構成をくずしません 基本的に室内劇なのです
うっかり構成をくずさないとか書いたのですが 部屋の外はくずれっぱなし モンゴルの地にカメラを据えれば それはもう角川春樹にだって 戦闘シーンだろうが景色だろうが撮れてしまうわけで ふてぶてしい澤井は 津川雅彦だったけの最低の儀式のシーンだかを 角川に平気で演出指揮させてしまうわけで このクソ暑いのに 角川が大自然の中で 葉っぱをやりながらいい気になっているとき クーラーの入ったホテルでやすんでいたのかもしれません そのぐらい神経が太くないと パロちゃんが言ってるみたいに アメリカの大監督たちでもボロボロにされてしまうのです こんなアホのような時代錯誤の歴史大作をまかされ それでも 脚本を土台に 大きな逸脱もせずに骨太な人間ドラマに 構成演出している 澤井信一郎はやはりすごいのであります
ラストはモンゴルの平滑空間から 万里の長城と言う境界線が かなたに浮上します それは視界に国家が現われる瞬間であり 国家が映画的に表象されてこの映画は幕を閉じるだろう
投稿日
2007/08/08
レビュアー
parole※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
1940年代後半のハリウッドにおいて主にB級映画を撮ることで監督の仲間入りした作家達が、アメリカ映画産業が凋落の一途を辿る50年代を経て、その流れがいよいよ決定的になった50年代末から60年代初頭にかけて遭遇したのは、ハリウッドが起死回生とばかりに矢継ぎ早に投入した数々の歴史大作だった。セシル・B・デミルの『十戒』[1956年]が嚆矢とされ『クレオパトラ』[1963年]を頂点とする作品群がそれで、他にも『ベン・ハー』 [1959年]、『アラビアのロレンス』 [1962年]、『偉大な生涯の物語』 [1965年]などをその例として上げることができるだろう。今ではその多くが文字通り歴史的な名作として映画史に残されているが、その製作の内幕は崩壊しつつあったハリウッドさながらの陰惨さに覆われていたらしい。セシル・B・デミルやデヴィッド・リーンと言った当時既に大家の位置にありこれ以前にも大作を物にしていた人物達はともかく、当時若手から中堅になりかかっていた作家達、すなわちキューブリックが『スパルタカス』[1960年]を、アルドリッチが『ソドムとゴモラ』[1954年]を自らのフィルモグラフィーから削除したがっていたことや、アンソニー・マンやニコラス・レイがこうした大作を製作した後に事実上映画作家としての生命を絶たれてしまったことからそのおおよそを窺い知ることができるし、ジョン・フォードやハワード・ホークスが大作主義に手を染めることがなかったこともその傍証として上げることができるだろう。要するに、これらは結局は徹頭徹尾プロデューサー達の作品だったのであり、それもフォードやホークスがザナックやゴールドウィンとの丁々発止の、でもどこか牧歌的な様相を残したやり取りによるものではなく、まさに生き残りを懸けた死闘とでも言うべきものが繰り広げられたのだろうと思う。
何故こんな話を持ち出したのかというと『蒼き狼』にハリウッド大作主義の幻影を感じてしまったからだ。マキノ雅弘に師事した経験を持つ最後の撮影所育ちの監督である澤井信一郎とアンソニー・マンやニコラス・レイなどの「50年代作家」を重ねるのはたやすいことだし、一時は獄中に繋がれた角川春樹は、『ローマ帝国の滅亡』(マン)や『北京の55日』(レイ)の製作者であり最後には莫大な借財を残したまま追われるようにしてハリウッドを去った稀代の山師サミュエル・ブロンストンとかなり似通ったアナロジーを成していると言えるだろう。だから、角川春樹が再び映画制作、それも莫大な予算を掛けた大作に着手し、その監督として市川崑や佐藤純彌、舛田利雄あるいは行定勲と言ったいかにも大仰な作品を手掛けそうな監督ではなく澤井信一郎に白羽の矢が立ったことを知り、上述のようなハリウッド大作主義の悪夢が思わず思い起こされてしまったのだ。
しかし、実際の作品を観る限りそれは杞憂に終わったと言えるだろう。澤井信一郎ならまさか『敦煌』やら『北の零年』のような作品を作る訳はないと思ってはいたが、物語や背景こそ大仰なものの、とてもしっかりした画面作りが成されていた。いや、物語もともすれば散漫になりかねない素材に対し軸をしっかり定めることによって、あまりブレのない物語を構成することに成功していたと思うし、恐らくは澤井信一郎が密かに憧れていただろう「西部劇」を堂々とやってのけているところも小気味良く、澤井氏が小品を手堅くまとめるだけの作家ではないことを再認識させられた。
とかくよからぬイメージがつきまとう人物である角川春樹にしても、テレビ局やら広告代理店やらと言ったそもそも映画なんてどうでも良いと思っている連中が単なるビジネスのためだけに幅を利かせているシンジケート方式が映画制作の主軸を完全に握ってしまった今日においては、その大言壮語さ故に結果的には貴重な存在になっており、むしろハリウッドの豪華な役員室にふんぞり返っているだけではなく、また経済観念だけから監督達に縛りを入れていた訳ではなく、彼らなりにそれ相当に映画を愛しておりそして同時に映画のことをとてもよく知っていたハリウッドの大プロデューサー達と重ね合わせることが可能なほどの頼もしさすら感じてしまうのだ。
少なくとも作品の出来という点に関して言えばとりあえず及第点を言える出来を残して再興した新角川映画だが、その真価が問われるのは次作以降になるだろう。思えば、大作主義でボロボロになってしまった50年代作家達にしても、初めての作品(マンの『エル・シド』、レイの『キング・オブ・キングス』)は課題点はあったものの何とかこなしていたはずだし、サミュエル・ブロンストンだって一時はハリウッドで最も発言力もある有名人になり得たのだ。次作は三村晴彦あたりを監督に据えて、『蒼き狼』がフロックでなかったことを証明して貰いたいと思う。
投稿日
2008/04/14
レビュアー
パープルローズ※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
この映画は見るつもりは全くなかったのですが、浅野忠信主演の話題作「モンゴル」を見たので、比べてみたくなって借りました。
他のみなさんがおっしゃってる通り、役者がみんな下手くそでせりふ棒読み状態なのが許せません。反町慟哭の芝居もくさい!(松山ケンイチだけはかわいいので許します。)
そして、舞台をモンゴルにはしていますが、内容はものすごく日本的な愛憎劇だと感じました。
略奪された妻のお腹の子供が、自分の子供ではないことを気にして、あーだこーだと室内で悩んでばかり。
「女はしょせん戦利品」と諦めきっているのか、女性たちにたくましさがありません。(女性兵士がひとり登場しましたが。)
その点「モンゴル」は、誰の子供だとか血がどうだとかそんなことはいちいち気にしない、女たちにも大陸の大草原で生きるたくましさを感じました。
しかし、合戦シーンやラストの即位シーンは、さすがに壮大(お金かけたんでしょうねえ。)ではありました。
テムジンの母(若村麻由美)のナレーションで、実に時系列通りに素直に進むので、とてもわかりやすいのがいいところです。「モンゴル」鑑賞前の予習としてはいいかもしれませんね。
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