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東映任侠路線「昭和残侠伝」シリーズ第7弾。秀次郎は、かつて博打で無一文になり、雪の中で凍えていたところを助けられた駆け出しの芸者・幾江に7年ぶりの再会を果たす。だが、幸せな日々も束の間、新興博徒の駒井が武志に黒い罠を仕掛けようとしていた。
東映任侠路線「昭和残侠伝」シリーズ第7弾。秀次郎は、かつて博打で無一文になり、雪の中で凍えていたところを助けられた駆け出しの芸者・幾江に7年ぶりの再会を果たす。だが、幸せな日々も束の間、新興博徒の駒井が武志に黒い罠を仕掛けようとしていた。
製作年: |
1970年 |
---|---|
製作国: |
日本 |
収録時間: | 字幕: | 音声: |
---|---|---|
92分 | 1:ドルビーデジタル/モノラル/日本語 |
|
レイティング: | 記番: | レンタル開始日: |
DRTD02347 | 2004年10月08日 | |
在庫枚数 | 1位登録者: | 2位登録者: |
3枚 | 0人 | 0人 |
収録時間:
92分
字幕:
音声:
1:ドルビーデジタル/モノラル/日本語
レイティング:
記番:
DRTD02347
レンタル開始日:
2004年10月08日
在庫枚数
3枚
1位登録者:
0人
2位登録者:
0人
DVD
収録時間: | 字幕: | 音声: |
---|---|---|
92分 | 1:ドルビーデジタル/モノラル/日本語 |
|
レイティング: | 記番: | レンタル開始日: |
DRTD02347 | 2004年10月08日 | |
在庫枚数 | 1位登録者: | 2位登録者: |
3枚 | 0人 | 0人 |
収録時間:
92分
字幕:
音声:
1:ドルビーデジタル/モノラル/日本語
レイティング:
記番:
DRTD02347
レンタル開始日:
2004年10月08日
在庫枚数
3枚
1位登録者:
0人
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池部良が出ていなかったら、この種の映画を見たりはしなかった。ただただ二人の道行きを見たいがために、シリーズ8作全部を見てしまうなんてことはなかった。
死地に赴く(といっていつも死なないんだけど)健さんを、池部良はいつも静かに道の途中で待ち構えている。だいだいは目と目を見交わすだけで二人歩き出すのだけれど、本作健さんは初め同行を断る。今は堅気の人間を刃傷沙汰には巻き込めないと。
切れ長のアイシャドーを入れた目を、ちょっと上目遣いにして粋な着流し姿、手には長ドスの池部良は健さんをじっと見つめる。
「ご恩返しの花道なんですよ。ご一緒願います」
嗚呼、この姿、この顔、この表情、この視線、だいたい52になってアイシャドーがこれほど似合う俳優はいるか、この声!「なんですよ」の「よ」の上げ方の絶妙なこと!日本男性の色気の精華ではなかろうか。
なんか、非常に倒錯的だが、自分が男になったつもりでこの池部良に惚れている気がする。
三島由紀夫も池部良が好きだから昭和残侠伝を好んだようだ。1970年「映画芸術」の対談記事で池部良演じる板前、風間重吉を絶賛している。
「他人のためにやっていることを、自分のこととしている。自分の中に消えていく小さな火をそっと大切にしているような、あの淋しさと暗さが、何ともいえない。わかっている」
天才文学者の表現にはひれ伏す以外ない。でも「道行きだけあればいいんだ」と凡人と同じことを考えているのが嬉しかったりする。
知的でエレガントな大スターでヤクザ映画の出演を最初はためらわれたということですが、出演してくださってよかった。私の池部良さんはいつも健さんの道行きの相手です。
ご冥福をお祈りいたします。合掌
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第七作、マキノ監督。名高き傑作、だがシリーズの最高傑作ではない。マキノには残侠=散華の意識はなく、任侠は人情あふれる共同体を背負って発露され、そこに帰還することが約束される。本作はとりわけ、人情共同体の連綿とした濃密な時空の造形がみごとだ。だからこそシリーズ定型の道行きがかつてない感情にいろどられる。高倉健の弟分長門裕之が行く=逝くのをさえぎられたように、堅気の料理人池部良もまたとどまるべきだった。池部は生きて、人情共同体たる料亭で芸者藤純子どうように高倉を待つひととなるべきだった。シリーズ中ゆいいつ、行くなという反残侠のおもいがみなぎってやるせない道行き、斬り込みとなる。もし高倉がひとりで行ったなら、そのカタルシスは余韻をえ、シリーズをこえてマキノの最高傑作のひとつにだってなったであろう。シリーズ中第三位。
銀杏の木のしたへきて、芸者藤純子が端唄をくちづさむ。お付きの半玉が、ねえさん、お座敷はあっちですよと声かける。藤は微笑む。「まわりみち、あんたにはまだわかんないわ」藤はまだ半玉のときこの木のしたで、傷を負い雨宿りする若きチンピラ高倉とであったのだった。お遣いのだいじなお酒をあたえた。たったそれだけの淡い初恋もようであった。それから何年もへて、周囲の粋なはからいで、ムショ帰りの高倉とたったいま再会をはたしたのだ。祝言ともいえる至福のときだった。
このかん東京を大震災が襲った。深川のおおくの家が焼かれひとが死んだ。それでもこの木はかわらず根をはり、空をあおいでいる。藤は実感をもって絆をしる。いま端唄する彼女にとってこの木は世界の中心だ。
マキノの人情共同体とはこの木のごとくある。本シリーズは対立劇であり、我慢をかさねた終局、高倉と池部が道行きをし斬り込むにいたる、そんな一本道のクライマックスで画される。だが本作はちがう。一本道ではない「回り道」の時空の魅力であふれている。
高倉の実家の料亭もそんな時空である。高倉はかつて異母妹との跡目相続をおもんばかり、伝統ある料亭を出奔した。ヤクザに堕ちた。建物は震災で焼けた。確執した父と最愛の異母妹も死んだ。料亭は再建こそすれ、義理の母は盲目となり、跡目を継ぐだろう妹の遺児はまだ子ども、かたちばかりの主人である亡き妹の夫は株にくるっている。いまは堅気の料理人池部がなんとかささえている。そこへ、高倉が渡世から足をあらい、名をふせることをみずからの条件とし帰ってきた。かれは相続の波風をおこしたくない。この料亭をまもりたいだけだ。
それでもめしいた義理の老母荒木道子は、新入り高倉のつくっただしまき卵ですべてをさとる。伝統の味だ。だが高倉の思慮もわかる。老母は高倉を奥の間へよぶ。仏壇に灯りをともしてほしいとたのむ。いち使用人が勝手にふみこめない一家の親密な空間だ。高倉は家を出奔していらい、ようやく父(の遺影)と対面をはたすことになる。高倉は老母の意図をさとるが、新入りをよそおいつづける。去りぎわ、指先でろうそくの炎をけす、哀悼するも躊躇ないすがすがしきアクションがすばらしい。
伝統ある料亭は焼け、いまは安普請をかくせぬがそれでもなおそこに親密な情がかよっている、それをあかすみごとな場面である。こんな情の細やかな遣り取りは、高倉と池部、藤、長門らのあいだでほれぼれとするくらいに心地よくつむがれる。これらは物語の一本道へ収束しない、それじたいで画面=場面の魅力をたたえるひとつひとつの回り道なのだ。むろん銀杏の木の根ざす道端どうように、この料亭の細部が奥行き(表情)をもって造形されているからこそである。インティメイトな仏壇の場面だけではない。料理場、その裏口、その路地裏。
だが映画は昭和残侠伝としてクライマックスをむかえざるをえない。悪役に極悪さがかけている。斬り込みの殺戮劇にカタルシスをあたえるには、堪忍の筋もよわい。であるならば、いっそのこと高倉は悪役と一対一の果たし合いでけっすべきではなかったか。弟分長門へ、おまえが一緒では、気になっておれはやられると、助太刀をぴしゃりと拒絶する。だがそのセリフはほんとうは、十数年堅気でとおした、ドスに封をし庖丁へかえた池部へいうべきだったのだ。高倉が非情なる拒絶のセリフと視線を池部へぶつける。むろん池部はその真意をしっている。だれかが料亭をまもらねばならない。無言でひきさがる池部は、煩悶と哀切のすばらしい視線を高倉へおくるだろう。この眼差しの交錯は、シリーズの定型の韻=美をこえた圧倒的な輝きをはなつにちがいない。
見送る藤純子がいう。こんどはあたしの義理に、情にいきてほしい。むろん高倉は、二度目の帰郷をするだろう。その家では池部の魂もまっている。老母は高倉の名のりをよろこんでむかえる。そして藤純子はふたたび銀杏の木のしたへと回り道する。
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※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
木の下での出会い、卵焼きの話、義母との会話とお仏壇、秀治郎を殴った後の重吉の詫び入れ、何れのシーンも情感にあふれ見ていて素晴らしい。
お約束の殴り込みに行く前の会話も決まっており、マキノ雅弘監督の晩年の代表作と言ってよい佳作でした。
このレビューは気に入りましたか? 3人の会員が気に入ったと投稿しています
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ユーザーレビュー:10件
投稿日
2010/10/13
レビュアー
港のマリー※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
池部良が出ていなかったら、この種の映画を見たりはしなかった。ただただ二人の道行きを見たいがために、シリーズ8作全部を見てしまうなんてことはなかった。
死地に赴く(といっていつも死なないんだけど)健さんを、池部良はいつも静かに道の途中で待ち構えている。だいだいは目と目を見交わすだけで二人歩き出すのだけれど、本作健さんは初め同行を断る。今は堅気の人間を刃傷沙汰には巻き込めないと。
切れ長のアイシャドーを入れた目を、ちょっと上目遣いにして粋な着流し姿、手には長ドスの池部良は健さんをじっと見つめる。
「ご恩返しの花道なんですよ。ご一緒願います」
嗚呼、この姿、この顔、この表情、この視線、だいたい52になってアイシャドーがこれほど似合う俳優はいるか、この声!「なんですよ」の「よ」の上げ方の絶妙なこと!日本男性の色気の精華ではなかろうか。
なんか、非常に倒錯的だが、自分が男になったつもりでこの池部良に惚れている気がする。
三島由紀夫も池部良が好きだから昭和残侠伝を好んだようだ。1970年「映画芸術」の対談記事で池部良演じる板前、風間重吉を絶賛している。
「他人のためにやっていることを、自分のこととしている。自分の中に消えていく小さな火をそっと大切にしているような、あの淋しさと暗さが、何ともいえない。わかっている」
天才文学者の表現にはひれ伏す以外ない。でも「道行きだけあればいいんだ」と凡人と同じことを考えているのが嬉しかったりする。
知的でエレガントな大スターでヤクザ映画の出演を最初はためらわれたということですが、出演してくださってよかった。私の池部良さんはいつも健さんの道行きの相手です。
ご冥福をお祈りいたします。合掌
投稿日
2008/06/14
レビュアー
kobarou※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
第七作、マキノ監督。名高き傑作、だがシリーズの最高傑作ではない。マキノには残侠=散華の意識はなく、任侠は人情あふれる共同体を背負って発露され、そこに帰還することが約束される。本作はとりわけ、人情共同体の連綿とした濃密な時空の造形がみごとだ。だからこそシリーズ定型の道行きがかつてない感情にいろどられる。高倉健の弟分長門裕之が行く=逝くのをさえぎられたように、堅気の料理人池部良もまたとどまるべきだった。池部は生きて、人情共同体たる料亭で芸者藤純子どうように高倉を待つひととなるべきだった。シリーズ中ゆいいつ、行くなという反残侠のおもいがみなぎってやるせない道行き、斬り込みとなる。もし高倉がひとりで行ったなら、そのカタルシスは余韻をえ、シリーズをこえてマキノの最高傑作のひとつにだってなったであろう。シリーズ中第三位。
銀杏の木のしたへきて、芸者藤純子が端唄をくちづさむ。お付きの半玉が、ねえさん、お座敷はあっちですよと声かける。藤は微笑む。「まわりみち、あんたにはまだわかんないわ」藤はまだ半玉のときこの木のしたで、傷を負い雨宿りする若きチンピラ高倉とであったのだった。お遣いのだいじなお酒をあたえた。たったそれだけの淡い初恋もようであった。それから何年もへて、周囲の粋なはからいで、ムショ帰りの高倉とたったいま再会をはたしたのだ。祝言ともいえる至福のときだった。
このかん東京を大震災が襲った。深川のおおくの家が焼かれひとが死んだ。それでもこの木はかわらず根をはり、空をあおいでいる。藤は実感をもって絆をしる。いま端唄する彼女にとってこの木は世界の中心だ。
マキノの人情共同体とはこの木のごとくある。本シリーズは対立劇であり、我慢をかさねた終局、高倉と池部が道行きをし斬り込むにいたる、そんな一本道のクライマックスで画される。だが本作はちがう。一本道ではない「回り道」の時空の魅力であふれている。
高倉の実家の料亭もそんな時空である。高倉はかつて異母妹との跡目相続をおもんばかり、伝統ある料亭を出奔した。ヤクザに堕ちた。建物は震災で焼けた。確執した父と最愛の異母妹も死んだ。料亭は再建こそすれ、義理の母は盲目となり、跡目を継ぐだろう妹の遺児はまだ子ども、かたちばかりの主人である亡き妹の夫は株にくるっている。いまは堅気の料理人池部がなんとかささえている。そこへ、高倉が渡世から足をあらい、名をふせることをみずからの条件とし帰ってきた。かれは相続の波風をおこしたくない。この料亭をまもりたいだけだ。
それでもめしいた義理の老母荒木道子は、新入り高倉のつくっただしまき卵ですべてをさとる。伝統の味だ。だが高倉の思慮もわかる。老母は高倉を奥の間へよぶ。仏壇に灯りをともしてほしいとたのむ。いち使用人が勝手にふみこめない一家の親密な空間だ。高倉は家を出奔していらい、ようやく父(の遺影)と対面をはたすことになる。高倉は老母の意図をさとるが、新入りをよそおいつづける。去りぎわ、指先でろうそくの炎をけす、哀悼するも躊躇ないすがすがしきアクションがすばらしい。
伝統ある料亭は焼け、いまは安普請をかくせぬがそれでもなおそこに親密な情がかよっている、それをあかすみごとな場面である。こんな情の細やかな遣り取りは、高倉と池部、藤、長門らのあいだでほれぼれとするくらいに心地よくつむがれる。これらは物語の一本道へ収束しない、それじたいで画面=場面の魅力をたたえるひとつひとつの回り道なのだ。むろん銀杏の木の根ざす道端どうように、この料亭の細部が奥行き(表情)をもって造形されているからこそである。インティメイトな仏壇の場面だけではない。料理場、その裏口、その路地裏。
だが映画は昭和残侠伝としてクライマックスをむかえざるをえない。悪役に極悪さがかけている。斬り込みの殺戮劇にカタルシスをあたえるには、堪忍の筋もよわい。であるならば、いっそのこと高倉は悪役と一対一の果たし合いでけっすべきではなかったか。弟分長門へ、おまえが一緒では、気になっておれはやられると、助太刀をぴしゃりと拒絶する。だがそのセリフはほんとうは、十数年堅気でとおした、ドスに封をし庖丁へかえた池部へいうべきだったのだ。高倉が非情なる拒絶のセリフと視線を池部へぶつける。むろん池部はその真意をしっている。だれかが料亭をまもらねばならない。無言でひきさがる池部は、煩悶と哀切のすばらしい視線を高倉へおくるだろう。この眼差しの交錯は、シリーズの定型の韻=美をこえた圧倒的な輝きをはなつにちがいない。
見送る藤純子がいう。こんどはあたしの義理に、情にいきてほしい。むろん高倉は、二度目の帰郷をするだろう。その家では池部の魂もまっている。老母は高倉の名のりをよろこんでむかえる。そして藤純子はふたたび銀杏の木のしたへと回り道する。
投稿日
2004/11/13
レビュアー
McQuade※このユーザーレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
木の下での出会い、卵焼きの話、義母との会話とお仏壇、秀治郎を殴った後の重吉の詫び入れ、何れのシーンも情感にあふれ見ていて素晴らしい。
お約束の殴り込みに行く前の会話も決まっており、マキノ雅弘監督の晩年の代表作と言ってよい佳作でした。
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